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八戸三社大祭 : ウィキペディア日本語版
八戸三社大祭[はちのへさんしゃたいさい]

八戸三社大祭(はちのへさんしゃたいさい)は、毎年7月31日から8月4日青森県八戸市で行われる神事を根拠としたである。
東北地方最大級の神事であり、7月31日が前夜祭、1日が「御通り(神幸祭)」、2日が「中日」、3日が「御還り(還幸祭)」、4日が後夜祭という日程になっている。
「三社」とは、八戸市内の法霊山龗(おがみ)神社(法霊神社)・長者山新羅神社神明宮のことで、三社の神輿行列と市内各町を中心とした組の20数台の華麗な人形山車が神社の氏子として八戸市中心市街地を巡行する。
期間中は105万から110万人の観光客が訪れる〔青森県、「平成21年度版 よくわかる青森県(PDF) 」p40(Ⅱ-1-(13)観光)。〕。
2004年2月6日に、「八戸三社大祭の山車行事」として重要無形民俗文化財に指定された〔八戸三社大祭の山車行事 (青森県)〕。
また、ポスターなどに書いてある「290余年の歴史と伝統」などというのは、あくまでも祭りの始まりである法霊社祭礼(龗神社例祭、2020年に300年目を迎える)の事であり、三社大祭としては2016年に130年目を迎える。
== 起源・歴史 ==
江戸時代の享保六(一七二一)年、八戸藩総鎮守として、藩主をはじめ町民より厚く信仰されていた法霊社(現在の龗神社)に対し、日和乞並びに豊作感謝の意を込めて、神輿を長者山虚空蔵堂(明治になり神仏分離令により長者山新羅神社)に渡らせたのが三社大祭の始まりである。
当時は法霊社の神輿行列は市内を練り歩き長者山に到着後、中日を経て3日目に行列ともども法霊社に帰還するという祭りであった。のちにその神輿行列に対して踊りや屋台山車などを奉納する形で町民がついて回り、現在の形へとつながっていく。
江戸時代当時は、法霊社祭礼は藩により運営され、神輿行列許可、祭礼日程などは全て藩によって取り仕切られ、藩の要職にあった家臣が徒目付や奉行として行列運行の役を担っていた。
また、法霊社は御領内総鎮守並びに藩神として城内二の丸に鎮座しており、すぐ近くに南部家の居城があった関係で一般の参拝が許されていなかったが、祭礼の時期だけは午前8時から午後4時までの間のみ、一般領民などの参拝が許されていた。
江戸期の祭礼の様子に関しては、八戸藩日記、法霊御神事諸事覚、法霊御神事日記など、藩などが記した文献で確認されている。
現在は、三社大祭を執り行う根拠となる法霊山龗神社の神社行列に加え、明治期になって参加した長者山新羅神社、神明宮の各神社行列、それに附祭として合計27台の豪華絢爛な山車が市内中心部を運行する形となっている。
附祭となる山車の大きな特徴は人形がせり上がり、左右の大きく広がる仕掛けを持つ豪華な山車にある。
当初は1体の人形を乗せる程度だったものが、明治の中頃より物語を表現する山車に変化し、昭和50年代頃から徐々に仕掛けが施されるようになった。近年では煙が吹き上がるなどの仕掛けもある。
山車は町内ごとに製作されるが、これは明治時代に大澤多門が発案したものと言われている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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