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八月一八日の政変 : ウィキペディア日本語版
八月十八日の政変[はちがつじゅうはちにちのせいへん]

八月十八日の政変(はちがつじゅうはちにちのせいへん)とは、江戸時代末期の文久3年8月18日1863年9月30日)、会津藩薩摩藩を中心とした公武合体派が、長州藩を主とする尊皇攘夷派を京都から追放したクーデター事件である。文久の政変(ぶんきゅうのせいへん)、堺町門の変とも呼ばれる。
== 経緯 ==
文久3年(1863年)は、尊王攘夷運動が最大にして最後の盛り上がりをみせた年であった。京都には各地から尊攘派志士が集結し、「天誅」と称して反対派に対する暗殺・脅迫行為が繰り返された。朝廷内においても三条実美姉小路公知ら急進派が朝議を左右するようになり、2月に国事参政と国事寄人の二職が設けられると、急進派がこれに登用され実権を握った。同じころ、学習院では草莽の者でも時事を建言できることとなり、これに出仕する尊攘派の真木和泉久留米藩士)、久坂玄瑞(長州藩士)らが朝廷に影響力を持つようになった。このような情勢のもと、2月には足利三代木像梟首事件が起こり、3月から4月にかけては天皇の攘夷祈願のための賀茂石清水行幸などが相次ぎ、ついには5月10日を攘夷決行の日とすることを参内した将軍徳川家茂に約束させるに至った。
5月10日、長州藩は下関海峡でアメリカ商船を砲撃して攘夷を実行に移すが、他藩はこれに続かず、長州藩が欧米艦隊から報復攻撃を受けるに及んでも、近隣の諸藩は傍観を決め込むのみであった。また、攘夷実行を約束した将軍家茂も、6月には京を離れ江戸に帰ってしまった。この長州藩の窮状を打開し、国論を攘夷に向けて一致させるため、天皇による攘夷親征の実行(大和行幸)が尊攘急進派によって企てられた。これは天皇が大和国神武天皇陵・春日大社に行幸して親征の軍議をなし、次いで伊勢神宮に行幸するというものであった。この行幸に関し、真木らは討幕の実行まで視野に入れていたともいわれる。
8月4日の朝議では、長州藩の攘夷砲撃に非協力的であった小倉藩の処分を幕府の頭越しに決定したが、これには池田慶徳鳥取藩主)らが強く反発した。また池田らは大和行幸に反対するため参内し、天皇への直接面会を要求して、取り次いだ議奏らを驚愕させた。一方、当の孝明天皇は、熱心な攘夷主義者ではあったものの、急進派の横暴を快く思っておらず、攘夷の実施についても幕府や諸藩が行うべきものと考えていた。天皇は三条らを排除するため島津久光らに期待していたが、薩英戦争を背景に久光の上京は難航した。
大和行幸のは8月13日に発せられたが、前後して会津藩薩摩藩を中心とした公武合体派は、中川宮朝彦親王を擁して朝廷における尊攘派を一掃するクーデター計画を画策していた。8月15日、松平容保京都守護職、会津藩主)の了解のもと、 高崎正風(薩摩)と 秋月悌次郎(会津)が中川宮を訪れて計画を告げ、翌16日に中川宮が参内して天皇を説得、翌17日に天皇から中川宮に密命が下った。
会津藩は兵1500名を動員し、政変の中心となった(薩摩藩兵は150名)。なお、会津・薩摩の他にも藩主稲葉正邦京都所司代であった淀藩をはじめ、徳島藩岡山藩鳥取藩米沢藩ら諸藩が政変に協力しており、必ずしも公武合体派のみが行った政変ではなかった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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