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八月十日事件 : ウィキペディア日本語版
8月10日事件[はちがつとおかじけん]

8月10日事件(はちがつとおかじけん, )とは、フランス革命期の1792年8月10日パリで民衆と軍隊がテュイルリー宮殿を襲撃してルイ16世マリー・アントワネットら国王一家を捕らえ、タンプル塔に幽閉した事件である。テュイルリー宮殿襲撃()とも言う。
この事件によりフランスでは王権が停止されたが、サン・キュロットを中心とする武装蜂起は、事実上の革命であったために8月10日の革命〔歴史家マチエらは第2革命として定義した〕とも呼ばれ、フランス革命は新段階に入った。
また事件は武力衝突の流血沙汰となって多くの死傷者を出したため、その責任を一方的にルイ16世に問う世論は日増しに高まっていき、それが国王裁判にもつながった。
== 背景 ==
1791年6月のヴァレンヌ事件は、フランス革命の流れに相反する二つの潮流を生み出した。第一は第二に対する反動で、短期的に穏健派と王党派が団結を強めてブルジョワ革命を急いで推し進めようという圧力となった。9月14日のルイ16世の1791年憲法への宣誓と復権〔ヴァレンヌ事件以後、公の政治活動が事実上停止されていたルイ16世は、憲法に宣誓して立憲君主となって初めて復権できた〕、10月1日立法議会の招集、立憲王政の成立へとたどり着いた後は、1789年の理想主義者ならこれで革命は終わったのだと信じることはできただろうし、事実、立憲議員の何人かは故郷に帰った。しかし全くそうではなかった。立憲主義者の偽りの勝利と、ブルジョワジーの分裂(フイヤン派ジャコバン派からの分離)をよそに、第二の波、つまりデモクラシーが台頭を始めていたのである。バスティーユ襲撃で革命に目覚めた革命的民主主義者たちは、次第に数を増やし、失業者や賃金労働者を中心にしたサン・キュロットの革命参加を促して、パリで徐々に政治勢力を形成した。彼らはコルドリエ・クラブ〔ジャコバン・クラブの方がやや穏健派が多く、この時期はまだジロンド派が同クラブでは力があったため、過激分子はコルドリエ・クラブに集まっていた。このクラブは所謂”マラーの党”が集うクラブであった〕や自治市会に結集して、さらにより急進的な第二世代の指導者を生み出していった。この第二の流れは7月17日シャン・ド・マルスの虐殺やクラブ閉鎖でも、衰えることはなく、鬱積した不満を約1年間ためていった。また第一の流れの副産物として、ウィーンとベルリンの宮廷はに唆されて、ピルニッツ宣言を発したが、これは決して武力介入を意味するものではなかったものの、ブリッソーら立法議会で新しく多数派になるジロンド派を刺激し、過剰に好戦的な愛国主義と、ヨーロッパの諸君主に対する攻撃的な革命十字軍(革命の輸出)のごとき発想を思い起こさせた。革命戦争の勃発は情勢を悪化させた。
戦争と経済危機(アッシニア暴落と砂糖の値段の高騰〔フランスの西インド諸島の植民地で反乱(ハイチ革命)が起きたために、出荷が止まって商品不足から短期間で価格が急騰し、それにつられて他の非植民地生産物の物価も上がり始めた。怒った民衆は、(民衆による)商品の価格設定を求めるようになり、最高価格令の要求はこの時期から興った。なおこの時点ではイギリスとは交戦状態にはなく、海上封鎖は行われていない〕)の影響は市民の生活を直撃した。パリのサン・キュロットたちは生活改善を求めて再び結集した。この流れはすでに左翼的イデオロギーを伴っており、生活に直結する切実な要求は次第に濁流のごとく強く激しくなった。運動を支える受動的市民は選挙権を持っていなかったので、彼らの政治的アピールは、武装して行進するといったより直接的な示威行動となって表れたが、能動的市民のなかにもこれに同調する者が現れ、彼らのリーダーとなった。サン=タントワーヌ城外区のビール醸造業者のサンテール〔アントワーヌ=ジョゼフ・サンテール。ジロンド派のサブリーダーで、後にヴァンデなどにも派遣される〕などはその典型で、このような人々がそれぞれの地区の民兵を組織し、革命の暴力として顕在化した。急進化する彼らの要求に政治家たちは後追いするばかりだったが、共和制樹立の要求は日に日に高まっていった。
そうした中で1792年6月20日にサン・キュロットの示威行動事件が起きた。武装した市民が国王の住居たるテュイルリー宮殿の中まで踏み込んできたこの事件は、拒否権を乱発する国王への圧力としてジロンド派が黙認したという側面〔市長ペティヨンは議会が厳戒令を布告するのを妨害した〕はあるが、武装蜂起がすぐに起きてもおかしくない危険な状況であることを示していた。王政の廃止を最初に口にしたのはジロンド派であったが、すでに事態は彼らの予想を上回るスピードで展開を始めていた。
「反乱者が公然と王制の転覆を計画」するという逼迫した情勢への危機感は、7月10日、フイヤン派を総辞職に至らせた。立憲君主制を守る最後の試みは、軍司令官に復帰したラファイエットに託された。彼はメルシー大使〔フロリモン=クロード・ド・メルシー=アルジェントー伯爵(Florimond Claude, Comte de Mercy-Argenteau)〕を通じて、ジャコバン派を解散させるために「軍隊をひきいてパリへ進軍する用意がある」のでオーストリアに軍事行動の停止を求めたこと〔これらのオーストリアとの共謀疑惑を「オーストリア委員会」とジャコバン派は呼んだ。この架空の「委員会」が織りなす陰謀にはマリー・アントワネットらも関与していることになっていたが、実際にはそれぞればらばらの活動をジャコバン派が結びついて考えていただけで、ラファイエットやフイヤン派の活動は、マリー・アントワネットやオーストリア当局の不信で拒絶され、お互いに足を引っ張っていた。しかしフイヤン派の処刑の多くはこれら共謀罪を理由としていた〕があり、さらにコンピエーニュへの脱出を国王に勧めた。ここで彼は軍隊と待つ予定であったが、国王の再度の脱出は7月12日から15日に延期されて、結局は中止になった。ルイ16世はヴァレンヌ事件の失敗を思い出して、信頼する外国人傭兵、ガルド・スイス部隊の保護下から出る気がしなかったのである。またマリー・アントワネットは諸君主国の同盟軍が声明を出して威圧するように求め、7月25日ブラウンシュヴァイクの宣言が出されることになるのだが、これはもはや武装蜂起を奨励するようなもので、完全に逆効果となった。
フランス革命では特徴的なことだが、蜂起は存在しない脅威に対する自己防衛の行為であった。8月10日事件は、誰かが終始一貫して計画を立てたわけではなく、7月末の最後の週からパリで異常な高まりを見せた示威行動が、爆発のクライマックスを迎えたに過ぎない。議会の立憲君主派と、宮廷の王党派に対して、民衆は立ち上がらなければ踏みつぶされるだけだと思ったわけである。ジロンド派は蜂起も王権の失効も望まなかったので、何とか抑えようと努力はしたが、8月になると王制打倒こそが唯一の解決策であるという見解はパリ全体に共有されるものとなった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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英語版ウィキペディアに対照対訳語「 10 August (French Revolution) 」があります。



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