|
八木沢 荘六(やぎさわ そうろく、1944年12月1日 - )は、栃木県今市市出身の元プロ野球選手(投手)、監督、野球指導者、解説者。 史上13人目の完全試合達成者。 2013年から群馬ダイヤモンドペガサスの特別アドバイザーを務める。 == 来歴 == 実家は製材所を経営〔「週刊ベースボール」2011年1月31日号(懐かしのプロ野球自主トレ企画)より、八木沢が実家で丸太を背負ってスクワットをしている写真から。〕。父親は今市市の市長だった八木澤善吉。 作新学院高校では、2年の時に春の選抜に初出場を果たす。2回戦で高松商に敗退。翌の選抜ではエースとして出場し、決勝で日大三高を完封で降し初優勝。作新は同年夏の甲子園も制して史上初の甲子園春夏連覇を果たすが、八木沢は大会前に体内から赤痢菌が検出され出場できず、控えだった加藤斌が主戦投手となった。高校同期に高山忠克、中野孝征、1期上に島野育夫がいた。 早稲田大学に進学しエースとして活躍。東京六大学リーグでは在学中3度優勝。にはマニラで開催された第6回アジア野球選手権大会(東京六大学選抜チームが日本代表)に出場、日本の優勝に貢献した。リーグ通算52試合登板、24勝12敗、防御率1.54、176奪三振、ベストナイン2回。大学同期に西田暢遊撃手がいる。 の第2次ドラフト1位で東京オリオンズに入団。即戦力と期待されながら伸び悩むが、徐々に力をつけ成田文男、金田留広、木樽正明、村田兆治の4本柱に次ぐ先発投手に定着。 10月10日の対太平洋クラブライオンズ戦ダブルヘッダー第1試合(宮城球場)で完全試合を達成。この試合は、元々は中継ぎ登板が多く、規定投球回に足りなかった八木沢に最高勝率のタイトルを取らせるべく投球回数を稼ぐために先発した試合だったという。この後、八木沢は目論見どおり規定投球回に到達し、7勝1敗で最高勝率のタイトルを獲得した〔7勝は最高勝率を獲得した投手の中では最少。1986年以降は「規定投球回到達有無に関係なく13勝以上」という規定ができたため、この規定が存在する限り更新されることはない。〕。このシーズンの完投は完全試合の1試合のみ、完封に至ってはプロ入り7年目で初めてだった。また、八木沢は元々ダブルヘッダーの第2試合に先発の予定だったが、第1試合に先発する予定だった村田兆治が寝違えて首を痛めたために急遽第1試合に先発することになったという。完全試合の日はカウントボール3までいったケースは一度もなかった。これは15回ある完全試合の中で唯一の記録である。 からコーチ兼任となり15勝、翌には11勝をマーク。、近鉄バファローズのチャーリー・マニエルの顔面に死球を当て、マニエルは顎の骨を複雑骨折する重傷を負った。マニエルが復帰した後、「和解」の場が持たれたが、故意にボールを当てたという疑念(ロッテ側は否定)を持っていたマニエルは八木沢と握手をしなかった。同年シーズン終了後に現役引退。 引退後は、はロッテ二軍投手コーチ, 西武( - , - 一軍投手コーチ, 二軍投手コーチ)、 - 途中までロッテ監督、は横浜ベイスターズ一軍投手コーチ、からまで巨人二軍投手コーチ、からまで阪神タイガース一軍投手コーチ、はオリックス・ブルーウェーブ一軍投手コーチ、は四国アイランドリーグ巡回コーチ、からまで東京ガス投手コーチ、からまで東京ヤクルトスワローズ二軍投手コーチ、からまでBCリーグ・群馬ダイヤモンドペガサス投手コーチを務めた〔八木沢荘六投手コーチ就任・青木野手コーチ背番号決定のお知らせ - 2010年12月20日〕。からは群馬の特別アドバイザーを務める。2月6日に亡くなった森徹の後を受けて2月11日に日本プロ野球OBクラブ理事長に就任する事が発表された〔プロ野球OBクラブ新理事長は八木沢氏 スポーツニッポン 2014年2月11日閲覧〕。 監督・コーチ業の合間を縫って、にフジテレビジョン・ニッポン放送解説者、 - にはアール・エフ・ラジオ日本解説者を務めた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「八木沢荘六」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|