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八木 進(やぎ すすむ、1924年9月17日〔鎮魂の碑(野球殿堂博物館) 〕 - 没年不明〈1944年9月~1945年8月15日の間〉)は、カロリン諸島ポナペ島出身のプロ野球選手。ポジションは捕手。 == 来歴・人物 == カロリン諸島ポナペ島出身(当時は日本の委任統治領だった)〔。島で働く父親を残し、日本(横浜)で生活した〔。関東学院中(現・関東学院中学校高等学校)在学中は、甲子園出場こそ無いものの、飯田徳治(浅野綜合中),小松原博喜(横浜商業)と並んで、横浜中等球界の三羽烏 と呼ばれていた〔野球界、1953年6月号。大和球士筆『日本プロ野球球団史 南海ホークス』より引用。〕。身長は五尺八寸五分(177cm)と当時としては大柄だったと伝わる〔〔プロ野球選手の体格はどう変わったか?|野球史 1920年代に生まれた日本人の平均身長・体重は、160cm・55kg。同年代の日本人プロ野球選手の平均身長・体重は、171cm・65kg。〕。 1942年に南海軍へ入団。主力選手が次々と応召されていく中、正捕手としてチームを支えた(南海ホークス戦前最後の正捕手と呼ばれている〔)。別所昭が1943年5月26日の大和軍戦(神戸市民運動場野球場)でノーヒットノーランを達成した時、マスクを被っていたのが八木だった〔〔1943年南海スタメンアーカイブ 〕〔2012年現在、ホークス史上唯一のノーヒットノーランである。従って、歴代のホークス捕手の中でも、唯一ノーヒットノーランに立ち会っている選手でもある。〕。 1944年に全35試合出場を果たすが、同年シーズン終了後に応召され、北支で戦死した(没年月日、死没場所は不明)〔。享年20。東京ドーム敷地内にある鎮魂の碑に、彼の名前が刻まれている。 辛口評論で知られた、野球評論家の大井廣介が自著で、「おとなしいがうまい捕手だった」と八木を評価している〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「八木進」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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