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八木重吉 : ウィキペディア日本語版
八木重吉[やぎ じゅうきち]

八木 重吉(やぎ じゅうきち、1898年2月9日 - 1927年10月26日)は、日本詩人
東京府南多摩郡堺村(現在の東京都町田市相原町)に生まれる。神奈川県師範学校予科(現・横浜国立大学)を経て、東京高等師範学校の英語科を1921年に卒業。兵庫県御影師範学校(現・神戸大学)、次いで1925年から千葉県の東葛飾中学校(現・千葉県立東葛飾高等学校)で英語教員を務めた。
神奈川県師範学校在学時より教会に通いだすようになり、1919年には駒込基督会において富永徳磨牧師から洗礼を受けた。1921年に将来の妻となる島田とみと出会う。この頃より短歌や詩を書き始め、翌年に結婚した後は詩作に精力的に打ち込んだ。1923年のはじめから6月までにかけて、自家製の詩集を十数冊編むほどの多作ぶりであり、1925年には、刊行詩集としては初となる『秋の瞳』を刊行した。
同年、佐藤惣之助が主催する「詩之家」の同人となる。この頃から雑誌や新聞に詩を発表するようになったが、翌年には体調を崩し結核と診断される。茅ヶ崎南湖院で療養生活に入り、病臥のなかで第2詩集『貧しき信徒』を制作したものの、出版物を見ることなく、翌年、29歳の若さで亡くなった。5年ほどの短い詩作生活の間に書かれた詩篇は、2000を優に超える。
重吉と妻のとみの間には桃子・陽二という二人の子女がいた。その二人も重吉と同じく結核で1937年に桃子が、1940年には陽二が相次いで夭逝。残された妻のとみ(登美子)は、後に歌人の吉野秀雄と再婚し、1999年に亡くなった。
キリスト教関係の詩を少なからず残したことから、戦後にはクリスチャン詩人としての評価が高まる(1950年には新教出版社から、重吉の著作として『神を呼ぼう』が出版された。ただし、重吉本人が編纂した2冊の詩集においては、宗教に関する詩はそれほど採られていない)。1982年には筑摩書房から『八木重吉全集(全3巻)』(2000年に増補改訂版全4巻)が、1988年には同社のちくま文庫から『八木重吉全詩集(全2巻)』が出版され、重吉の全貌をたどることが容易になった。また、1984年には、故郷の町田市相原町に八木重吉記念館が開設されている。
短い詩が多いのが特徴であり、103篇をおさめた『貧しき信徒』には、10行を超えるものはたった2つしか見られない。中には「木に眼が生つて人を見てゐる」(冬)、「神様 あなたに会ひたくなつた」(無題)のような一行詩もある。この詩集には、長女・桃子が何回も登場するように、幸福な家庭生活を描いたものも散見される。同じキリスト教徒であった妻が驚くほどに熱心な信徒であった重吉は、「私の詩(私の詩をよんでくださる方へささぐ)」という未発表詩のなかで、自分の詩は「必ずひとつひとつ十字架を背負ふてゐる」と主張する。時として詩作さえも罪悪だと考えるほどであった(『八木重吉全詩集 第一巻』筑摩書房、p.356)と告白するものの、「詩をつくることをすててしまふなら/あまりにすきだらけのうつろすぎるわたしのせかいだもの」という理由で、「歯をくひしばっ〔ママ〕て泣くまいとしてうたをうたふ」のだと書いている。
== 外部リンク ==

*青空文庫 作家別作品リスト - 八木重吉
*つれづれの文車 - 八木重吉
*日本詩人愛唱歌集 - 八木重吉
*八木重吉記念館詳細 - 教育出版
*八木重吉の年譜と文学活動 - 八木重吉記念館





抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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