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八条原城[はちじょうばらじょう]
八条原城(はちじょうばらじょう)は、現在の東広島市志和町にあった、江戸時代末期から明治時代初期にかけて築かれた城。幕末の動乱に備えて築城されたものの、動乱の終息に伴い工事は中止された。
== 歴史 == 慶応5年/明治元年(1868年)、戊辰戦争が勃発すると、広島藩は戦乱の拡大と外国の干渉等、不測の事態に備えて、秘密裏に志和の地に築城することを決定した。 志和は、築城決定の前年の慶応4年(1867年)に木原秀三郎率いる藩士と藩士以外の武士・庶民からなる混成部隊「神機隊」の拠点になっており、志和への入口である内村越・小原峠・御堂原・榎山峠・湯坂峠・関川を封鎖することによって、志和盆地全体を一大拠点として要塞化できること。海沿いの広島城では、海上から外国船の砲撃を避けられず、海からも離れていることが城地選定の大きな理由となった。 同年7月、武具奉行高間多須衛の指揮の下、築城工事を開始。築城は急ピッチで進められ、藩主浅野長勲や前藩主浅野長訓も志和入りして工事を指揮。工事が中止になるまでに藩庁別館及び藩主別邸、米蔵、学寮兼兵営・練兵場が完成している。翌年には藩士子弟300人を選抜して学寮に入れ、文武塾を開校。この城を拠点として、広島藩の明治動乱への備えとした。しかし戊辰戦争の沈静化によって、築城は中止され、城地や施設は払い下げられた。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「八条原城」の詳細全文を読む
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