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八条原城 : ウィキペディア日本語版
八条原城[はちじょうばらじょう]

八条原城(はちじょうばらじょう)は、現在の東広島市志和町にあった、江戸時代末期から明治時代初期にかけて築かれた幕末の動乱に備えて築城されたものの、動乱の終息に伴い工事は中止された。

== 歴史 ==
慶応5年/明治元年(1868年)、戊辰戦争が勃発すると、広島藩は戦乱の拡大と外国の干渉等、不測の事態に備えて、秘密裏に志和の地に築城することを決定した。
志和は、築城決定の前年の慶応4年(1867年)に木原秀三郎率いる藩士と藩士以外の武士・庶民からなる混成部隊「神機隊」の拠点になっており、志和への入口である内村越・小原峠・御堂原・榎山峠・湯坂峠・関川を封鎖することによって、志和盆地全体を一大拠点として要塞化できること。海沿いの広島城では、海上から外国船の砲撃を避けられず、海からも離れていることが城地選定の大きな理由となった。
同年7月、武具奉行高間多須衛の指揮の下、築城工事を開始。築城は急ピッチで進められ、藩主浅野長勲や前藩主浅野長訓も志和入りして工事を指揮。工事が中止になるまでに藩庁別館及び藩主別邸、米蔵、学寮兼兵営・練兵場が完成している。翌年には藩士子弟300人を選抜して学寮に入れ、文武塾を開校。この城を拠点として、広島藩の明治動乱への備えとした。しかし戊辰戦争の沈静化によって、築城は中止され、城地や施設は払い下げられた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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