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八洲秀章(やしまひであき、1915年(大正4年)6月2日 - 1985年(昭和60年)12月30日)は昭和期の作曲家。本名鈴木義光。 == 経歴 == 北海道虻田郡真狩村出身。本名鈴木義光。 21歳で上京し、YMCAのオラトリオに参加。その後、山田耕筰に師事。 1937年(昭和12年)、「詩と歌謡」に投稿した「漂泊の歌」が同年ポリドールで東海林太郎の歌声でレコード化され作曲家デビュー。作曲家として活動を始めるが、2年後肺結核に発病し療養を余儀なくされる。1940年(昭和15年)6月、伊藤久男の「高原の旅愁」で復帰。 「さくら貝の歌」、「あざみの歌」、「毬藻の唄」を作曲したことで知られる。「あざみの歌」は、自身の歌唱で1949年(昭和24年)8月8日からラジオ歌謡で1週間放送し、その後、のど自慢等で歌われるようになり、1951年(昭和26年)、伊藤久男の歌唱でレコード化された。 一時期、志摩光一の名で歌手活動を行っていた。その後は、日本音楽著作権協会評議員、日本作曲家協会理事などを務めた。 1985年(昭和60年)12月30日死去。享年70。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「八洲秀章」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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