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八瀬童子(やせどうじ、やせのどうじ、はせどうじ)は山城国愛宕郡八瀬郷(現在の京都府京都市左京区八瀬)に住み、比叡山延暦寺の雑役や駕輿丁(輿を担ぐ役)を務めた村落共同体の人々を指す。室町時代以降は天皇の臨時の駕輿丁も務めた。伝説では最澄(伝教大師)が使役した鬼の子孫とされる。寺役に従事する者は結髪せず、長い髪を垂らしたいわゆる大童であり、履物も草履をはいた子供のような姿であったため童子と呼ばれた。 昭和3年(1928年)、八瀬童子の伝統を守るため関係者によって社団法人八瀬童子会が組織され、資料の収集保全が進められている。平成22年(2010年)には同会所有の資料741点(文書・記録類 650点、装束類 91点)が重要文化財に指定された。〔平成22年6月29日文部科学省告示第103号〕 また、葵祭には輿丁の扮装で参加し、天皇の輿丁として奉仕した往時の姿をしのばせている。 == 来歴 == 弘文天皇元年(672年)の壬申の乱の際、背中に矢を受けた大海人皇子がこの地に窯風呂を作り傷を癒したことから「矢背」または「癒背」と呼ばれ、転じて「八瀬」となったという。この伝承にちなんで後に多くの窯風呂が作られ、中世以降、主に公家の湯治場として知られた。歴史学的な見地からは大海人皇子に関する伝承はほぼ否定されており、八瀬の地名は高野川流域の地形によるものであるとされている。 比叡山諸寺の雑役に従事したほか天台座主の輿を担ぐ役割もあった。また、参詣者から謝礼を取り担いで登山することもあった。また、比叡山の末寺であった青蓮院を本所として八瀬の駕輿丁や杣伐夫らが結成した八瀬里座の最初の記録は寛治6年(1092年)であり、記録上確認できる最古の座と言われている。 延元元年(1336年)、京を脱出した後醍醐天皇が比叡山に逃れる際、八瀬郷13戸の戸主が輿を担ぎ、弓矢を取って奉護した。〔猪瀬文献的にははっきりせず、柳田國男は口碑にすぎないとしている。しかし村人は信じていた。〕この功績により地租課役の永代免除の綸旨を受け、特に選ばれた者が輿丁として朝廷に出仕し天皇や上皇の行幸、葬送の際に輿を担ぐことを主な仕事とした。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「八瀬童子」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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