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八路軍(はちろぐん、パーロぐん、簡体字:八路军、ピン音:bālù-jūn)とは、日中戦争時に華北方面で活動した中国共産党軍(紅軍)の通称である。1937年8月、中国工農紅軍が国民革命軍第八路軍として国民政府指揮下に編入されたことからこの名称で呼ばれた(のちに国民革命軍第十八集団軍と改称されたが、八路軍の通称は残った)。現在の中国人民解放軍の前身のひとつ。 == 概要 == 毛沢東は軍閥や列強に対抗するには民衆による革命運動では限界があることを認識していた。一方中国国民党では、1920年代の時点で貧弱な装備ながらも軍隊を保持しており、蒋介石は軍隊を用いて反共クーデター(上海クーデター)をおこし、第一次国共合作を崩壊させた。中国共産党はこの苦い経験から独自の軍隊の創設を迫られることになった。 毛沢東思想による人民戦争理論(「点化した敵軍を、人民の海のなかに埋葬する」―人海戦術)に従い、共産党は中国各地への浸透工作を積極的におこなった。共産党に協力的な地域を、村落、都市に広げるのが目的である。これらの活動の結果、共産党勢力は草の根的に増殖し、遊撃兵力を各地に展開させることも容易になった。 1937年に日中戦争(支那事変)が勃発すると、国民党軍が前線で日本軍と対峙し、八路軍は便衣兵としてテロやゲリラ戦で、主に日本軍の輸送部隊や小部隊を攻撃し、鉄道などの輸送網の破壊も行った。また日本軍は広大な中国大陸で小部隊を分散せざるを得なかったため、八路軍の攻撃は日本軍の作戦行動や農村部の支配に打撃を与えた。農村部においては、日本軍が安全に行動できるのは大きな街の周囲などわずかな地域で、八路軍の襲撃が多い地域や支配がまったく及ばない地域の方が多かった〔『北支の治安戦 1』防衛庁戦史編纂室編/朝雲社発行〕。 このため「日本軍は点と線しか確保できなかった」と評される。 日本の敗戦後、国共内戦が再開すると、八路軍は更に大きな力を発揮するようになる。満州では、関東軍の装備を接収したソ連軍は、これをそのまま八路軍に与えた〔ああ……悲劇の通化暴動事件!二十一、「八路来了」(パーロー、ライラー) 〕。また、日本兵を含む残留日本人を八路軍に編入することで軍事技術や専門技術を得た。空軍のなかった八路軍は林弥一郎少佐以下関東軍第二航空団第四練精飛行隊員を取り込み、東北民主連軍航空学校を設立し、航空部隊を養成した。また、正規の砲兵隊がなかったので日向勝を筆頭とした日本人教官の基で砲兵学校を設立した。医師や衛生兵、看護婦など、戦争に欠かせない技術を持つものは日本に帰国させず、国共内戦勝利後も長きにわたって徴用した(後に衆議院議員・厚生大臣となる戸井田三郎夫妻など)。八路軍は国民党軍との戦いに勝利し、1949年10月の中華人民共和国建国に大きな役割を果たした。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「八路軍」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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