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八重山市(やえやまし)は、沖縄県石垣市と八重山郡竹富町との合併によって誕生する計画があった新しい市の名称である。 == 経緯 == 八重山諸島にある石垣市、竹富町、与那国町の1市2町では、2002年から合併の検討が進められた。石垣市はおおむね合併に前向きであったが、竹富町及び与那国町は、合併に財政基盤の強化などにメリットを見いだす一方で、それぞれ以下のような問題を抱えていた。 ; 竹富町 : 竹富町役場は、現在、竹富町内ではなく石垣市美崎町にある。これは、八重山諸島の航路・空路は石垣島から放射状に延びていて、竹富町の島々を相互に結ぶ交通手段が充分に整っていないためである。町役場の町内への移転は古くから検討されてきたが、近年、移転による経済効果を期待して、町内で人口が最大の西表島大原に町役場を移転する計画が具体化していた〔西表島・東部 まちの拠点づくりを地域の活力へ 情報やいま2002年4月号、南山舎〕。このため、役場移転優先派の当時の町長や西表島選出の町議会議員らを中心に、町役場移転の障害となる合併に対しては根強い反対があった〔市町村合併:5月実施の住民投票 小差の結果も 社団法人行革国民会議、2004年6月1日〕。 ; 与那国町 : 与那国町は石垣市、竹富町と地理的に離れていて、文化をはじめ種々の面で独自性が強い上に、八重山諸島の他の島に比べて直通の航空路線がある那覇市との結びつきも強く、かねてから自立志向を強く持っていた。 3市町は2003年7月1日に法定合併協議会を設置したが、2004年10月16日に行われた与那国町の住民投票で合併反対が賛成を大きく上回ったため、与那国町が協議会から脱退し、1市2町による合併は頓挫した〔石垣市と竹富町が合併協定書に調印 25日の最終本会議で議決へ 八重山毎日新聞、2005年3月19日〕。 与那国町の離脱を受け、石垣市、竹富町は1市1町での合併をめざすこととなった。竹富町では、2004年5月16日の住民投票で合併賛成が反対を上回り〔竹富町の合併についての意思を問う住民投票結果(最終) - 竹富町役場(Internet Archive 2007年9月27日のデータ)〕、同年8月22日に行われた町長選では合併推進を掲げた現町長が現職で町役場移転優先派の前町長を破り当選するなど、合併支持の民意が示される一方で、町議会では、14人のうち議長を除く8人が西表島出身で、役場移転優先派が多数を占めていた。このため、町議会で法定協議会設置が3度にわたり否決されるなど、合併の交渉は難航した〔住民間に深い亀裂 竹富町議会合併否決 琉球新報、2005年3月29日〕。 2005年2月28日に4度目の採決によって竹富町議会で法定協議会設置が可決されると、合併の手続が急速に進められた〔新市名称「八重山市」に決定 石垣市竹富町合併協議会 18日に調印式 八重山毎日新聞、2005年3月13日〕。3月18日には合併協定が調印され、残るは、石垣市と竹富町とのそれぞれの議会での合併議案の可決だけとなった。しかし、石垣市議会では順調に議案が可決されたものの、竹富町議会では3月25日と同28日の2度にわたり否決され、合併特例法の期間内の合併は断念されることとなった〔幻に終わった「八重山市」誕生 八重山毎日新聞、2005年4月2日〕〔石垣市・竹富町合併協議会 -Internet Archive 2005年4月3日のデータ〕。 なお、1908年から1914年の6年間、この3市町は八重山村という単一の地方自治体を形成していたことがある〔沿革史 : 八重山村時代 八重山広域市町村圏事務組合〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「八重山市」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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