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八馬財閥(はちうまざいばつ)は、八馬家が、天保10年(1839年)に生まれた初代八馬兼介が22歳で分家し、米穀商八馬屋を起こしたところに始まる。阪神財閥のひとつ。 初代八馬兼介は、産をなした後、明治11年に風帆船西尾丸を買い入れて海運業に進出した。23年にはドイツ汽船メリタ号を購入し、多聞丸と命名した。メリタ号購入後も中古汽船を買い入れ多門丸と名づけ、多門丸は18号にまで及んだ。多門丸以外にも久保丸、大正丸、勝立丸などがあった。明治36年の1隻、714総トンから、40年の4隻、6739総トン、44年の9隻、21103総トンと増加し、八馬家は中堅社外船主として成長を遂げた。大正14年には「八馬汽船株式会社」を設立した。 初代兼介には養嗣子がいたが、なぜか、初代は二代目兼介に後を譲らなかった。大正5年、二代兼介の長男栄之助が早大商科を卒業すると、初代は翌年隠居し、栄之助に三代兼介を称させて、家督を相続させた。 八馬家は、家業として海運業を営んだほか、西宮の有力資産家として、西宮銀行、武庫銀行、神戸土地興業、阪神急行電鉄等の設立に共同出資した。とりわけ、西宮銀行(明治24年設立)、武庫銀行(前身西宮貯金銀行の創立は明治29年)においては、創立以来、大株主として取締役の地位を確保し続けた。八馬兼介は、西宮銀行では明治31年以来、武庫銀行では創立以来、頭取であった。 大正6年、初代兼介は両行頭取を辞任し、孫の三代兼介が後を継いだ。西宮銀行は、昭和7年、武庫銀行を合併した。そして昭和11年、兵庫県の7銀行(三十八、神戸岡崎、五十六、西宮、灘商業、姫路、高砂)の合併による神戸銀行設立に参加した。三代兼介は、神戸銀行初代頭取に就任、昭和22年までその職にあった。 神戸銀行設立時、西宮銀行は払込資本金214,7万円で県下第四位、預金3507万円で第三位であった。 八馬兼介がほぼ一貫して西宮、武庫両銀行の頭取の地位を占め続けたことから、両行は八馬家の準家業として発展した。 戦後、八馬家の家業は、八馬汽船 と多聞酒造を2本柱として存続することになったが、多聞酒造は2004年に経営破綻多聞ブランドは大関株式会社に譲渡された。 ==外部リンク== *八馬汽船 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「八馬財閥」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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