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六角義郷 : ウィキペディア日本語版
六角義郷[ろっかく よしさと]

六角 義郷(ろっかく よしさと)は戦国時代安土桃山時代武将六角氏嫡流の六角義実の孫で、六角義秀の長男(六角氏綱の長男、義秀の弟とする説もある)。母は織田信広の娘千代君。『天正三年正月十一日付斎藤玄蕃助宛織田信長朱印状』によると、母は「犬山之伊勢守息女」とされており、守護代織田家の出身である可能性もある。別名に義康。幼名は龍武丸という。官位は近江守、左兵衛佐、侍従。のちに出家し入道台岩。
歴史学の一般的な通説においては、氏綱の弟の六角定頼家督を継承し、以降定頼の子孫が六角氏の家督を継いだと考えられている。以下の記述は六角氏の家督は氏綱の子孫に受け継がれたとする異説を前提とした上のものになっている。
== 概略 ==
六角義秀の子として近江国に生まれる。幼少時には一時足利義昭の猶子とされ、若屋形と呼ばれた。織田信長は一時彼か義昭の息子を足利将軍にすることを考えていたともいう。
天正12年(1584年)9月1日、豊臣秀吉近江旗頭を召し出した折、箕浦城から呼び出されて秀吉に仕える(召し出したのは豊臣秀次であるとの説もある)。翌13年(1585年)、1万石を与えられて六角氏を再興した。14年(1586年)には父・義秀が参議であったことから秀吉のはからいで侍従・少将に任じられ、豊臣姓の称号をも授かる(『歴名土代』)。
以後豊臣の準一門として九州征伐にも兵400を率いて織田信秀らとともに参陣、小田原征伐にも従軍し、陣中で茶会に招かれている(『天王寺屋会記』)。文禄の役でも秀吉直属軍の第一陣として出陣、弟で養子の八幡山秀綱とともに肥前名護屋城に「御留守在陣衆」として在番している(『太閤記』)。
秀吉・秀次との縁故や母が織田信広の娘であったことが影響してか、早々に累進を重ねて近江八幡12万石の大名となり、極めて優遇された。信秀や織田秀信と同時に侍従任官・官位昇進し、天正16年(1588年)4月の後陽成天皇聚楽第行幸などにおける殿中席次では近い席次に置かれるなど織田一族と近しい待遇を受けている。秀次の領国「近江」という共通関係もあってか、秀次と近しい、もしくは配下(寄騎)の待遇であり、次世代政権での安定した地位を得て、六角佐々木氏の復興もこの時点では順調であったと言えるだろう。
文禄4年(1595年)、秀次事件に際しては秀次近習となっていた家臣の勧めで家臣鯰江権佐の娘を秀次の側室に献上したことから連座して改易されたが、若年であったため身柄は捕縛されることはなく、秀吉から諸国居住勝手を許された。義郷と共に取り立てられた六角系家臣(元来は彼の家臣)の多くが秀次の直臣となっており、秀次事件で切腹した熊谷大膳木村重茲(常陸介)らはその代表格である。
秀吉の死に際し、遺物として大兼光の太刀を拝領したが、この太刀は父・義秀が秀吉へ諱字を与えた時に贈ったものであり、当時の公家などは奇縁を不思議がった。
関ヶ原の戦いにおいては、近江の地盤固め策としてか、石田三成より「北国表の大将として参陣すれば、六角家の再興を叶えて本領を安堵する」との条件、後には近江一国の軍勢をすべてつけるという条件で誘われたが、これを拒絶する。このため適任者なく、この方面へ西軍は軍勢を派遣できなかった。増田長盛はこれに激怒し、義郷を討ち果たすべきと三成に進言したが、三成は「義郷を討てば近江の民心が離れる」との理由で義郷を咎めなかった。織田秀信を味方にして美濃を勢力下に置いたことといい、三成の戦略の一端が伺えるエピソードである。戦後は徳川家康から召し出されたが、西軍に加担しなかったのは東軍に内通していたためだと謗られることを嫌い、これをも拒絶している。家康はこれを褒め「今の世の良将である」と語ったという。
以後は武家としての動きはなく、公家として豊臣秀頼に伺候、六角義賢次男で秀頼家臣であった佐々木高盛と交流するなどの活動が見える。慶長15年(1610年)、家康に訴えて比叡山延暦寺に寺領5,000石の寄進を賜っている。
子息は織田氏(信長の娘)との間に六角秀綱があったが早世し(これは弟で養子の八幡山秀綱のことともされる)、晩年の元和7年(1621年)、織田秀信の娘との間に儲けた末子・六角氏郷が家督を相続した。元和9年(1623年)逝去。享年47と伝わる。(享年47説を採ると、1577年生まれとなり、父・義秀との関連性の辻褄があわなくなる。義秀は1569年に没しているため。)
義烈百人一首に歌と肖像が載っている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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