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佐々木頼綱[ささき よりつな]
佐々木 頼綱 / 六角 頼綱(ささき よりつな / ろっかく よりつな)は、鎌倉時代中期の武将。鎌倉幕府の御家人、近江守護。近江源氏庶流佐々木氏の本家六角氏当主。父は佐々木泰綱、母は足利氏の娘とされる。 == 概略 == 仁治3年(1242年)佐々木泰綱の子として生まれる〔『群書系図部集 3, 第 2 巻』p.295、「佐々木系図」〕。建長2年(1250年)12月3日に北条時頼邸で元服〔『吾妻鏡』建長2年12月3日条。 建長二年(1250)十二月大三日甲午。天晴。今日。佐々木壹岐前司泰綱子息小童〔九歳〕。於相州御亭遂元服。号三郎頼綱。御引出物以下經營。盡善極美。一門衆群參。各随所役云々。奥州。秋田城介等所被參會也。〕〔安田、1985年、p.244。〕〔山野龍太郎論文、表3(山本、2012年、p.166)。〕、時頼から偏諱(「頼」の字)を与えられて〔山野龍太郎論文(所収:山本、2012年)より。〕頼綱と名乗り、その翌年から鎌倉幕府に出仕して左衛門尉、備中守に任じられた。 建治3年(1277年)の北条貞時(時頼の孫)の元服式に立ち会い、六波羅評定衆に加わった。近江に郡代を設置したり不入だった竹生島の寺社領徴税を行うなど守護権の強化も進めた。 ところが、徳治2年(1307年)に興福寺と領土問題で対立、興福寺衆徒が神木を奉じて強訴する騒ぎに発展したため、翌徳治3年(1308年)7月に尾張に配流され、2年後の延慶3年12月24日(1311年1月22日)に失意の内に死去。享年69。 長男の頼明(よりあき)は弘安8年(1285年)の霜月騒動で安達氏に与したとして既に廃嫡されており、他の息子達も早世したため、家督は末子の時信が継承した。
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