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六郷 政晴(ろくごう まさはる)は、出羽本荘藩の第4代藩主。 == 生涯 == 延宝3年(1675年)、第3代藩主・政信の長男として生まれる。越後長岡藩第3代藩主・牧野忠辰の異父弟。 貞享2年(1685年)9月22日、父・政信の死去により、家督を相続した。元禄3年(1690年)12月26日、従五位下伊賀守に叙任する。元禄4年5月28日、お国入りの許可を得る。元禄6年1月28日、奥詰に就任する。元禄7年11月11日、奥詰を退任する。 治世中に隣接する旗本・仁賀保氏と、領民の紛争をきっかけに争いが起こっている。本荘藩の領民が仁賀保氏領の冬師山の木を伐採したことで領民同士が争い、藩と仁賀保氏との争いへと発展した。将軍直参の旗本である仁賀保氏は幕府に裁定を持ち込み、争いは足掛け7年に及んだが、最終裁定は本荘藩に有利なものとなった。 また、正徳2年(1712年)には同じく隣接する亀田藩との間で、真木山の権益を巡っての争いが始まるが、これが解決するのは百余年のちのことである。 享保11年(1726年)、長男・政英を病弱を理由に廃嫡した。享保20年(1735年)閏3月2日、次男・政長に家督を譲って隠居し、寛保元年(1741年)3月27日に67歳で死去した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「六郷政晴」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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