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共同競馬会社(Union Race Club)は1879年(明治12年)から1892年(明治25年)まで存在した競馬を主催する社交クラブ。日本の皇族、華族、政府高官、高級将校、財界人ら名士がメンバーになった。共同競馬会社が催す競馬は外相井上馨の提唱する欧風化政策に基づき、屋外の鹿鳴館とも位置付けられ、競馬の母国イギリスでは競馬は貴族の社交場であったことに倣っている。明治12年から戸山学校競馬場、1884年(明治17年)からは上野不忍池で春・秋に東京在住の上流階級が集って競馬を催した。共同競馬会社が催す競馬には明治天皇も計13回行幸され、上流階級の人々によって華やかに開かれた競馬の目的は鹿鳴館と同じく西洋的な文明国を目指すことに加え、馬匹の改良の意図も加えられた。運営は会費と宮内省、農商務省、陸軍の支援で行われたが馬券は発売されることはなく財政的に行き詰って1892年(明治25年)解散する。明治初期にはClubは会社と翻訳されたため共同競馬会社を名乗るが営利企業ではなく社交を目的としたクラブである〔立川2008、3頁〕。 同時期、東京三田の三田育種場競馬場で競馬を開催した興農競馬会社(Agricultural Racing Club)もほぼ同趣旨のクラブで参加人員も多くは重複している。 ==明治維新と競馬== 1859年(安政6年)横浜では外国人居留地で競馬が行われ(根岸競馬)日本在留の外国人の社交の場となっていた。この横浜居留地競馬には幕末の五賢侯の一人旧宇和島藩主伊達宗城などの日本人も参加してその社交性を目にしていた。また、後に外相になる井上馨や、後に共同競馬会社の社長・副社長となる旧佐賀藩主鍋島直大や旧徳島藩主蜂須賀茂韶などはイギリスに滞在してイギリスの貴族社会での競馬を目にしている。明治維新後明治政府は諸外国に対して日本が文明国であることをアピールすることに力を注ぎ、そのため欧風化政策を急いだ。その中で1879年(明治12年)にはドイツの皇族、アメリカ前大統領グラント将軍、イタリア王国王族などが相次いで来日する。ドイツの皇族には鍋島直大が接待役を務め、グラントの接待は伊達宗城、イタリア王国王族の接待には蜂須賀茂韶があたる。井上馨や同じく欧州での競馬の社交性を知る伊藤博文らによって進められている欧風化政策によって宮内卿徳大寺実則と外務卿寺島宗則はグラントを始め外国要人の歓待用に陸軍戸山学校に競馬場を作ることを提案する〔立川2008、42-44頁〕。 戸山学校敷地西側を競馬場として整備する費用は6,120円、馬見所(メインスタンド)も厩舎も仮のもので十分な施設とは言えなかったが(5年後の鹿鳴館時代に作る上野不忍池競馬場では11万7千円と桁違いの経費を投入する)、それでも一周1280メートルの楕円型の馬場を持つ戸山学校競馬場は1879年(明治12年)当時の東京ではもっとも本格的な競馬場であった〔立川2008、10,60頁〕。 1879年(明治12年)6月、アメリカ合衆国前大統領グラント将軍が来日し、それに合わせて戸山学校競馬場は7月上旬に竣工した〔日本中央競馬会1967、32-42頁。〕。戸山学校競馬場の馬場は楕円形で一周は1280メートル〔日高1998、36-37頁。〕。陸軍が競馬を執行することになり、臨時競馬規則を定める。開催日は8月20日とし8月9日には陸軍卿西郷従道名でグラント将軍に招待状を出す。当日には明治天皇がご臨幸されグラント将軍およびその随員たち、日本側は宮家や旧大名、政府高官がこぞって参加し競馬を観覧される。明治天皇は1時から5時まで観戦、グラント将軍は6時すぎまで観戦した〔。 外国要人接待に競馬を開催することは宮内省・外務省の要請だが、実際に競馬場を作り運営したのは陸軍である。陸軍ではその必需品である日本馬が外国の馬に比べ著しく劣っていることから馬匹の改良を求め、その手段の一つとして競馬に注目していたのである〔立川2008、56-57頁〕。また、農商務省も陸上輸送の柱である荷馬車を曳く馬の改良を求めていた。また天皇や政府高官の馬車を曳く馬や将校が乗る馬が(外国馬に比べ)みすぼらしいのでは外国人に対して国家の威厳にも関わる問題でもあった。西洋人の目にはこの当時の日本馬はみすぼらしいポニーでしかなかったのである〔立川2008、14-17頁〕。 グラント将軍の接待の為の戸山学校競馬の成功ののち、西洋貴族の競馬文化を知る要人と馬匹の改良を求める陸軍軍人らによって共同競馬会社は企画される。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「共同競馬会社」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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