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兵庫論 : ウィキペディア日本語版
国是綱目[こくぜこうもく]
国是綱目(こくぜこうもく)は、明治2年(1869年)1月に当時の兵庫県知事であった伊藤博文が、県幹部3名(中島信行田中光顕何礼之)及び大阪に赴任中の会計官権判事の陸奥宗光とともに提出した建白書。兵庫論(ひょうごろん)とも。
== 経緯 ==
江戸幕府の崩壊とともに成立した明治政府は、これまで尊皇攘夷を掲げて様々な行動を起こしてきた朝廷薩摩藩長州藩などの攘夷派志士が中心となって結成していた。このため、各地の攘夷派は新政府が成立すれば当然攘夷が断行されるものと考えていた。ところが、新政府は慶応4年1月10日にいわゆる「開国の詔」を出して諸外国に対して江戸幕府が締結した条約の継続を約束し、また五箇条の御誓文にて「旧来ノ陋習ヲ破リ」「智識ヲ世界ニ求メ」と述べ、続く五榜の掲示においても「万国公法履行」を掲げていたにも関わらず、攘夷については明確な否定をしなかった。
かつて東禅寺イギリス公使館襲撃に加わっていた伊藤博文は、その後のイギリス留学を通じて攘夷が非現実的な方針であり、いつまでも実現不可能な路線に固執すべきではないと考えていた。また、いつまでもを存続させておくことは日本の政治的な統一を妨げる原因の1つになると考えて一刻も早い廃止を望んでいた。しかし、当時の伊藤はいまだ一介の地方知事でしかなく、中央の方針に関与できるだけの立場にはなかった。
奥羽越列藩同盟の崩壊が確実となった明治元年9月17日、伊藤は「五州各国ト並立ント欲スルヤ、世禄ノ制を以国政ヲ立ル不能ハ人々ノ知ル所ナリ」と述べて、日本は海外諸国と同等の国家を目指し、まずそのために天皇に兵権を集中すべきとする意見書を出し、続いて11月に近隣の姫路藩版籍奉還の申し出をしたと知るや同様の趣旨の意見書を再度提出した。
だが、一向に新政府からの音沙汰がないのに不満を抱いた伊藤は、薩長土肥藩主が版籍奉還の上表を行ったという報を聞きつけ、部下である県判事の中島、権判事の田中、同じく英学者で県出仕(顧問に相当する)の何と相談して建白書の提出を図り、これに偶々伊藤と面識を持った陸奥も加わって5人連名で提出したのが6ヶ条からなる『国是綱目』であった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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