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兵庫開港要求事件[ひょうごかいこうようきゅうじけん] 兵庫開港要求事件(ひょうごかいこうようきゅうじけん)とは、慶応元年9月(1865年11月)、イギリス・フランス・オランダの連合艦隊が兵庫沖に侵入し、その軍事力を背景に安政五カ国条約の勅許と兵庫の早期開港を迫った事件。アメリカ合衆国は艦隊を派遣しなかったものの公使が同行しており、四カ国艦隊摂海侵入事件などともよばれる。 == 事件に至る経緯 ==
兵庫港(兵庫津。かつての大輪田泊)は安政5年(1858年)に締結された日米修好通商条約およびその他諸国との条約(安政五カ国条約)により、西暦1863年からの開港が予定されていたが、異人嫌いで知られた孝明天皇が京都に近い兵庫の開港に断固反対していた。このため、幕府は文久遣欧使節(開市開港延期交渉使節)を派遣し、英国とロンドン覚書を交換し、兵庫開港を5年間延長して1868年1月1日とすることとなった。 1863年から1864年にかけて長州藩と、イギリス・フランス・オランダ・アメリカ合衆国の四カ国との間に下関戦争が勃発し、敗れた同藩は賠償金300万ドルを支払うこととなった。しかし、長州藩は外国船に対する砲撃は幕府の攘夷実行命令に従っただけであり、賠償金は幕府が負担すべきとの理論を展開し、四カ国もこれを受け入れた。幕府は300万ドルを支払うか、あるいは幕府が四カ国が納得する新たな提案を実施することとなった。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「兵庫開港要求事件」の詳細全文を読む
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