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兼松正吉 : ウィキペディア日本語版
兼松正吉[かねまつ まさよし]

兼松 正吉(かねまつ まさよし、天文11年(1542年) - 寛永3年9月5日1627年10月13日))は、安土桃山時代から江戸時代初期の武将兼松清秀の子で、尾張国葉栗郡島村(現在の愛知県一宮市島村)に生まれる。「金松」との表記は誤記〔『尾張藩兼松家史話探訪』兼松豊 p.6
「代々の文書発給者は「金松」と表記しているが正しくは「兼松」である。今に始まったことではなく何百年前からあったことで伝統的なものである。将来とも「金松」と誤記されても伝統的なものであるから、腹を立てずに訂正をお願いするように」としている。〕。通称は千熊、又四郎、修理亮。
== 生涯 ==
織田信長に仕え、桶狭間の戦いで初陣を飾る。最初は下級武士であったが、戦功を挙げて信長の馬廻衆として活躍。本能寺の変後は、尾張に戻り織田信雄に仕えて、小牧・長久手の戦いでも信雄に属して戦っている。信雄の没落後は、羽柴秀吉の黄母衣衆として活躍、豊臣秀次に一時属するが、秀次の死後は再び秀吉に仕え、秀吉の没後は徳川家康に仕えた。慶長5年(1600年)、会津征伐に家康に従い、西に転じて岐阜城攻め、関ヶ原の戦いに従軍した。戦後、家康の子の松平忠吉の与力となり2600石を知行。忠吉が早世したのち、徳川義直に仕え、尾張藩士となった。墓所は政秀寺

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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