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内海 哲也(うつみ てつや、1982年4月29日 - )は、読売ジャイアンツに所属するプロ野球選手(投手)。日本プロ野球選手会副会長〔運営組織・構成・変遷 日本プロ野球選手会〕。 == 経歴 == === プロ入り前 === 京都府城陽市出身。敦賀気比高等学校でエース左腕として活躍し注目された。高校時代は田中良平・森大輔とともに「北陸三羽ガラス」と呼ばれた。仲澤忠厚や李景一らとともにの秋季福井大会・北信越大会では他校を寄せ付けない圧倒的な強さで優勝し、翌年の選抜高等学校野球大会への出場を確実とした。第30回明治神宮野球大会では内海自身は本調子では無かったが、強力打線の援護により準優勝。第72回選抜高等学校野球大会に出場することが決まり、優勝候補に挙げられていたが、仲澤が飲酒運転と無免許運転による事故を起こし、敦賀気比高校は甲子園出場を辞退した。 高3夏の予選では不調に苦しみ本来の調子が出ないまま、福井大会決勝で山岸穣・天谷宗一郎を擁する福井県立福井商業高等学校に延長10回の末に2-3で敗れ、あと一歩で甲子園出場は果たせなかった。阪神のスカウトに「高校生では打てない」と評された落差の大きなカーブと恵まれた体格から投じる角度のついた最速144km/hの速球の緩急自在な投げ分けで三振の山を築いた。1試合平均14個を超える奪三振率を誇り、「北陸のドクターK」の異名を取った。 2000年のドラフト会議では複数球団による1位指名での争奪戦が確実視されていたが、祖父の内海五十雄が巨人の野手だったこともあり、ドラフト直前に巨人以外からの指名は拒否することを表明した。そのため、ドラフト会議では巨人が単独で3位以降で〔この年は逆指名によって1位・阿部慎之助、2位・上野裕平と既に決まっていた。〕指名することが想定されたが、オリックス・ブルーウェーブが1位指名した。指名直後に監督の仰木彬から電話を受けるなどしたため、一時はオリックス入団に傾いたが、高校時代にバッテリーを組んでいた李景一が巨人から8位で指名されたことが逆に巨人への気持ちを強くし〔【12月3日】2000年(平12) 破格の提示にもやっぱり…内海哲也、オリックス入り拒否 スポニチアネックス〕、最終的には東京ガスへ進んだ。社会人時代は香月良太・森大輔とともに「三羽ガラス」と呼ばれていた。 の第74回都市対抗野球大会にシダックスの補強選手として出場し準優勝。同年のドラフト会議で巨人が自由獲得枠で交渉権を獲得し入団〔。背番号は祖父と同じ26に決まった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「内海哲也」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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