|
内田 修(うちだ おさむ、1929年10月5日 - )は、日本の外科医、ジャズ愛好家。愛知県岡崎市出身。名古屋大学医学部卒業。数多くのジャズミュージシャンを支援したことから親しみをこめて「Dr.U(ドクター・ユー)」「Dr.Jazz(ドクター・ジャズ)」と呼ばれる。その膨大なコレクションは、愛知県岡崎市に寄付された。「ジャズの街岡崎名誉顧問」。 == 略歴 == 1929年10月5日、愛知県岡崎市に産婦人科医院の二男として生まれる。1945年7月、岡崎空襲により家を失い、一家で額田郡岩津町(現・岡崎市岩津町)に疎開する。1950年、名古屋大学医学部に入学。NHKのラジオ番組「スイング・クラブ」を聴き、ジャズに本格的興味を持ち〔中日新聞夕刊1986年6月24日) ">ドクター内田のジャズに乾杯!2(中日新聞夕刊1986年6月24日) 〕、ロベール・ゴーファン著「JAZZ - FROM CONGO TO METROPOLITAN」や、野川香文著「ジャズ音樂の鑑賞」でジャズを勉強するようになる〔ドクター内田のジャズに乾杯!3 (中日新聞夕刊1986年6月25日)〕。1952年、名古屋市・広小路通のレコード店「OK百貨店」の店員と、ジャズ愛好クラブ「ナゴヤ・ホット・クラブ」(のちに「ホット・クラブ・オブ・ジャパン名古屋支部」に改称)を発足(1954年まで継続)。同年、名古屋・栄にあった舞踏会館で第1回レコードコンサートを開催した〔ドクター内田のジャズに乾杯!6 (中日新聞夕刊1986年7月2日)〕。また、東京・神田のレコード店「リズム社」店主・村岡貞と知り合い、出世払いでLPレコード12枚組のフォークウェイ「ジャズの歴史第2集ブルース編」を入手した。1953年、東京・有楽町のジャズ喫茶「コンボ」でジャズピアニスト・守安祥太郎と知り合い、クラブ貿易会館にてフォー・サウンズ(守安祥太郎、宮沢昭、上田剛、原田寛治)の演奏を聴く。さらに、名古屋で開催されたルイ・アームストロング・オールスターズ(名古屋市公会堂)及びJATP(名宝劇場)のコンサートを鑑賞する。 1955年、名古屋大学を卒業し、インターンとして市立岡崎病院(現岡崎市民病院)に勤務。1956年に一宮市立市民病院に赴任となったのち、1958年より名古屋大学医学部第二外科教室に勤務。1960年からは静岡県清水市(現静岡市清水区)の桜ケ丘病院に赴任となったが、1961年に実家の内田病院が外科を開設したため、愛知県岡崎市に戻り外科を開業した。その傍ら、1957年に名古屋・栄のジャズ喫茶「コンボ」の久野史郎の紹介でパーカッショニスト・富樫雅彦と出会い、さらに富樫の紹介でサックス奏者渡辺貞夫と出会う。1961年にはアート・ブレイキー&ジャズ・メッセンジャーズの大阪公演を鑑賞。ドラマーのデイブ・ベイリーが日本ツアー終了後、内田宅を訪問した。 1962年、横浜市のジャズ喫茶「ちぐさ」店主の吉田衛に出会い、ギタリスト・高柳昌行とベーシスト・金井英人を紹介される。さらに高柳からピアニスト・菊地雅章を紹介される。1963年、高柳と金井がリーダーの「新世紀音楽研究所」第5回ジャズセミナーが名古屋「トップ・スリー」で開催された際には、ミュージシャンたちが内田宅を訪問。日野皓正、山下洋輔も一緒に訪れた。同年、鈴鹿サーキットで開催された第1回日本グランプリを見てカー・レースに魅了され、週末のスポーツ走行に参加し始める。また、「銀巴里」で開催された「新世紀音楽研究所」第7回ジャズセミナーを、ソニー製ポータブルテープレコーダー「777(スリーセブン)」で録音(1972年に『幻の銀巴里セッション』としてスリー・ブラインド・マイスがレコード化)。また、来日したジョージ・ルイスとニューオリンズ・オールスターズの主治医を務めた。 1964年、自宅にドクターズ・スタジオをつくり、完成披露で猪俣猛とウエストライナーズが演奏。1963年、日本楽器製造(ヤマハ)名古屋店の伊藤公治と出会い、ヤマハ・ジャズクラブを設立、会長となった。1964年に第1回ヤマハ・ジャズクラブを開催(レコードコンサート)。第2回ヤマハ・ジャズクラブを開催(以降、ライブ中心となる)。 ドイツの製薬会社の招待で世界一周旅行(ニューオーリンズのジャズ博物館やバークリー音楽大学在学中の渡辺貞夫を訪問、またニューヨークではバド・パウエル、ジョン・コルトレーンなどのライブを鑑賞のほか、ウェス・モンゴメリー、リー・コニッツ、チャールズ・ミンガスらと交流) レース好きの医師らと「名古屋レーシングクラブ」を結成 オスカー・ピーターソンが内田宅を訪問、共通の趣味である車とオーディオをネタに親交をあたためる 1965年、鈴鹿サーキット第1回3クラブ対抗レース大会に出場し、ジュニア部門Tクラスで優勝(以降約3年間、毎月1・2回レースに出場) 1966年、ジャズ・メッセンジャーズ来日時、アート・ブレイキーとレジー・ワークマンが内田宅を訪問 セロニアス・モンク・カルテットが名古屋公演後、内田宅を訪問しドクターズ・スタジオで日野皓正、松本英彦、大野雄二、稲葉国光らとセッション 「スイング・ジャーナル・ジャズ・ツアー」に参加し、ニューポート・ジャズ・フェスティバルを鑑賞 1968年、海外旅行中、偶然モントルー・ジャズ・フェスティバルを鑑賞し、ビル・エヴァンスと知り合う オランダで偶然アン・バートンのレコードを聴く(帰国後レコード会社に紹介し、1970年に日本発売が実現) ニューポート・ジャズ・フェスティバル初出演の渡辺貞夫を訪問 1969年、ヤマハが経営していたリゾート施設「合歓の郷」(2007年より三井不動産が経営)でジャズフェスティバル「ネム・ジャズイン」を開催 1970年、菊地雅章がヤン・ハマーを伴って内田宅を訪問 1973年、ヤマハ・ジャズクラブ第57回例会にアン・バートンを招き、「アン・バートン・イン・パーソン」を開催 ビル・エヴァンス初来日、名古屋公演終了後に再会 1975年、日野皓正が渡米前に健康診断のため内田病院を訪問 1977年、内田病院に入院していた久野史郎が逝去 1981年、宮沢昭が内田病院で手術を受け、2ヶ月間入院 ヤマハ・ジャズクラブ第98回例会で宮沢昭のジャズ界復帰作『マイ・ピッコロ』のレコーディングが行なわれ、感謝の意を込めた「ドクターU」が収録される 1982年、渡辺貞夫が内田病院に入院 1984年、著書「ジャズが若かった頃」が晶文社から出版、東京・六本木の「ピットイン」で記念パーティー開催 1985年、ケイコ・リーと出会う 1987年、岡崎市で開催された地方博覧会「葵博-岡崎’87」の期間中、コンサート「ジャズ・ファミリー・イン・オカザキ」を監修 1991年、ヤマハ・ジャズクラブ第129回例会に、闘病中の高柳昌行が出演(最後のステージとなり、同年6月逝去) 1992年、ヤマハ・ジャズクラブ・イン・浜松(第1回)を監修 岐阜長良川国際ジャズフェスティバルを開催(2000年まで継続) 内田病院を閉じて第一線の外科医を引退 1993年、ジャズコレクションを岡崎市に寄贈、宮沢昭、佐藤允彦、日野元彦、井野信義によりドクターズ・スタジオでクローズド・パーティーが行われる 岡崎市青年経営者団体連絡協議会記念事業「ヒルトプップ・ジャズ・フェスティバル・イン・オカザキ」を監修 1996年、岡崎市美術博物館で企画展「ジャズの街角・内田修ジャズコレクション」開催、コレクションが初公開される 1997年、ヤマハ・ジャズクラブが第150回例会をもって終了 1998年、岡崎市美術博物館で企画展「ジャズの街角・パートⅡ」開催 2000年、第9回ハママツ・ジャズ・ウィーク開催をもって、監修を児山紀芳に引き継ぎ、名誉顧問となる 2001年、岡崎市美術博物館で企画展「ジャズの街角・パートⅢ」開催 2002年、岡崎市シビックセンター内に「ジャズコレクション資料室」が開設される(2008年9月まで) 2003年、内田修ジャズコレクションのウェブサイトが開設される 2005年、2005年日本国際博覧会「愛・地球博」期間中の「岡崎の日」で、ジャズコレクション紹介イベントが開催される 2008年、岡崎市図書館交流プラザ内に「内田修ジャズコレクション展示室」が開設される 2012年、岡崎市より「ジャズの街岡崎名誉顧問」を委嘱される 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「内田修」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|