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内田喜久 : ウィキペディア日本語版
内田喜久[うちだ よしひさ]

内田 喜久(うちだ よしひさ、1925年1月5日 - )は、日本政治家新聞記者愛知県岡崎市長(3期)、愛知県議会議員(2期)を歴任した。「喜久」を音読みして「きく」と読まれることも多い。
== 概要 ==
愛知県岩津村井ノ口(現・岡崎市井ノ口町字楼)に生まれる〔『全岡崎知名人士録』 50頁。〕。岩津町立大樹寺尋常小学校卒業〔『愛知新聞』1963年4月11日〕。1939年、新三河新聞社に記者見習いとして採用される。新聞社で働きながら岡崎市立商業学校(現・愛知県立岡崎商業高等学校)の夜間部に通った〔『東海愛知新聞』2015年6月2日【特集号】〕。日刊新聞『新三河』は1940年11月1日竹内京治の『岡崎朝報』に統合され『三河新聞』と改称する〔『新編 岡崎市史 総集編 20』 499頁。〕。一県一紙の国策により1942年8月31日に廃刊となる日まで『三河新聞』の記者を務めた。
1944年10月、召集により満州に送られる。満州第929部隊に入隊。1945年3月、本土決戦要員として本国に戻され、群馬県の駐屯地で終戦を迎える〔『市政だより おかざき』1980年3月1日号、「市長随想」〕。
1946年明治大学政治経済学部に入学。1947年4月25日第23回衆議院議員総選挙において岡崎市出身の千賀康治が初当選。内田は千賀の秘書となるかたわら、西三河青年同盟をおこし政治運動ならびに青年運動に情熱を傾ける〔内田喜久 『欧米見たまゝ』 愛知新聞社、1970年4月1日、著者略歴。〕。
1952年5月、市内旧康生町〔1957年12月戦後復興事業完成に伴う町名変更が実施された。旧康生町はこのとき康生町康生通東1・2丁目、康生通西1~4丁目、康生通南1~3丁目に分かれた。〕にて『愛知新聞』を創刊。同新聞の社主となる。さらに東海放送株式会社を設立した〔。1961年には中部日本都市広告協会を設立した〔。
1963年4月17日に行われた愛知県議会議員選挙に自由民主党公認で立候補。初出馬ながらトップ当選を果たした。1967年、再選。
1970年10月3日太田光二・岡崎市長の支援者の集会が開かれる。太田は3期勇退を公約に掲げていたが、衆議院議員の中野四郎中垣國男、岡崎市議長、岡崎商工会議所会頭らが中心となった同集会において、次期市長選挙候補に太田を推薦することが採択される〔『三河時報』1970年10月25日、11月25日〕。この動きを遺憾に思う市民から出馬を促され内田は転身を決断。一方の太田は12月10日、定例市議会の冒頭で正式に出馬を表明〔『愛知新聞』1971年1月1日、4月15日〕〔『東海新聞』1970年12月11日〕。12月18日、岡崎市地区総代会長連絡協議会は太田の推薦を決定〔『東海新聞』1970年12月20日〕。
1971年4月25日に行われた岡崎市長選挙では、4期目を狙う太田、元衆議院議員秘書の原嶋亮二〔原嶋亮二は1967年に続く2度目の市長選出馬であった。小林錡旧愛知4区)と藤山愛一郎旧神奈川1区)の秘書を務めた。〕との保守三つどもえの戦いを制し初当選した。同年5月2日、市長就任〔『市政だより おかざき』1972年1月1日号〕。
1975年、再選。1979年、無投票で3選。
1980年6月22日に行われた第36回衆議院議員総選挙に、長男の内田康宏旧愛知4区から無所属で立候補するも落選。翌日、同選挙に関し公職選挙法違反の容疑で岡崎市議6名が逮捕されたのち、6月27日に同容疑で逮捕され、6月30日に辞職した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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