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内田百間 : ウィキペディア日本語版
内田百間[うちだ ひゃっけん]

内田 百間(うちだ ひゃっけん、1889年明治22年)5月29日 - 1971年昭和46年)4月20日)は、夏目漱石門下の日本の小説家随筆家。本名は内田 榮造。
戦後は筆名を内田 百と改めた(読みは同じ〔は門構えに月、U+9592、〕)。別号は百鬼園(ひゃっきえん)。
「百」は、故郷岡山にある旭川の緊急放水路である百間川から取ったもの。別号の「百鬼園」を「借金」の語呂合わせとする説もあるが、本人は一応のところ否定している。
迫り来る得体の知れない恐怖感を表現した小説や、独特なユーモアに富んだ随筆などを得意とした。後輩の芥川龍之介に慕われたほか〔芥川龍之介内田百間氏 」『芥川龍之介全集 第十五巻』岩波書店、1997年1月。〕、師である夏目漱石の縁故から夏目伸六と親交が深かったことでも有名。
== 年譜 ==

* 1889年明治22年)5月29日 - 岡山市(現在の中区)古京町一丁目百四十五番地に裕福な造り酒屋「志保屋」の一人息子として誕生。祖父の名から「榮造」と命名。父久吉、母峯。
* 1895年(明治28年) - 環翠小学校(現在の岡山市立旭東小学校)入学。
* 1899年(明治32年) - 岡山市岡山高等小学校(現在の岡山市立内山下小学校)入学。
* 1902年(明治35年) - 岡山県立岡山中学校(現在の岡山県立岡山朝日高等学校)入学。
* 1905年(明治38年) - 父・久吉死去。実家の志保屋倒産。以後、経済的に困窮する。
* 1908年(明治41年) - 第六高等学校(現在の岡山大学)入学。
* 1910年(明治43年) - 東京帝国大学文科大学入学。文学科独逸文学専攻。
* 1911年(明治44年) - 療養中の夏目漱石を見舞い、門弟となる。小宮豊隆鈴木三重吉森田草平らと知り合う。
* 1912年大正元年) - 中学時代の親友堀野寛の妹、堀野清子と結婚。
* 1913年(大正2年) - 夏目漱石著作本の校正に従事。長男久吉生まれる。
* 1914年(大正3年) - 東京帝国大学独文科を卒業。漱石山房では後輩の芥川龍之介と親交を深める。長女多美野生まれる。
* 1916年(大正5年) - 陸軍士官学校ドイツ語学教授に任官(陸軍教授高等官八等)。
* 1917年(大正6年) - 「夏目漱石全集」(岩波書店)校閲に従事。
* 1918年(大正7年) - 海軍機関学校ドイツ語学兼務教官を嘱託される。同校英語学教官であった芥川の推薦による。
* 1920年(大正9年) - 法政大学教授(予科独逸語部)に就任。祖母・竹が死去。
* 1921年(大正10年) - 短編小説「冥途」等を「新小説」に発表。次女美野生まれる。
* 1922年(大正11年) - 処女作品集『冥途』(稲門堂書店)刊行。
* 1923年(大正12年) - 陸軍砲工学校附陸軍教授を命ぜられる。関東大震災に罹災。前年刊行の『冥途』の印刷紙型を焼失。同震災により機関学校も崩壊焼失したため、嘱託教官解任。
* 1924年(大正13年) - 三女菊美生まれる。
* 1925年(大正14年) - 陸軍士官学校教授を辞任、家族と別居。
* 1927年昭和2年) - 陸軍砲工学校教授依願免官。
* 1929年(昭和4年) - 東京市牛込区(現在の東京都新宿区)の合羽坂に転居(佐藤こひと同居)。中野勝義の懇請を受けて法政大学航空研究会会長に就任
* 1931年(昭和6年) - 航空部長として、学生の操縦による青年日本号訪欧飛行を計画・実現。なお、出発日は自分の誕生日であった
* 1933年(昭和8年) - 随筆集『百鬼園随筆』(三笠書房)を刊行、重版数十を重ねベストセラーとなる。いわゆる「法政大学騒動」を機に法政大教授を辞職。百を追い出した陣営には森田草平や関口存男がいた。以後文筆業に専念。
* 1936年(昭和11年) - 長男・久吉死去(24歳)
* 1939年(昭和14年) - 日本郵船嘱託となる( - 1945年)。同年台湾旅行。百原作・古川緑波主演で映画「ロッパの頬白先生」製作。
* 1942年(昭和17年) - 日本文学報国会への入会を拒否。
* 1945年(昭和20年) - 東京大空襲により東京都麹町区土手三番町(現在の千代田区五番町)の居宅焼失。隣接する松木男爵邸内の掘立小屋に移住。後年、このころの日記を『東京焼盡(東京焼尽)』として発表。
* 1948年(昭和23年) - 東京都千代田区六番町6に三畳間が3つ並んだ新居、通称「三畳御殿」が完成。『新方丈記』。
* 1950年(昭和25年) - 大阪へ一泊二日旅行。これをもとに小説『特別阿房列車』執筆。以後『阿房列車』はシリーズ化、1955年まで続き、百の戦後代表作となる。
* 1952年(昭和27年) - 鉄道開業80周年を記念して,東京駅一日駅長に就任。
* 1957年(昭和32年) - 愛猫「ノラ」が失踪。『ノラや』をはじめとする随筆を執筆
* 1959年(昭和34年) - 小説新潮に『百鬼園随筆』を連載開始。死の前年まで続く
* 1964年(昭和39年) - 妻・清子死去(72歳)。翌年、佐藤こひを入籍。
* 1967年(昭和42年) - 芸術院会員に推薦されるが、断る。辞退の弁は「''イヤダカラ、イヤダ'' 」〔「イヤダカラ、イヤダ」は芸術院会員推薦を辞退する際、当時院長であった高橋誠一郎氏の元へ託したメモがその後簡略化されて伝聞されたものと言われている。〕として知られる
* 1970年(昭和45年) - 最後の百鬼園随筆である「猫が口を利いた」発表。老衰が激しく以降の作品が書けず、これが絶筆となる。
* 1971年(昭和46年)4月20日 - 東京の自宅で老衰により81歳で没する。没後『日没閉門』が出版される。
: 東京中野区金剛寺の句碑「''木蓮や塀の外吹く俄風'' 」から、忌日を木蓮忌とも言う。


抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「内田百間」の詳細全文を読む



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