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内田祥文(うちだ よしふみ、1913年 - 1946年)は、日本の建築家、建築研究者、都市研究家、都市計画家。工学博士。戦時下で木造建築の防災などに、戦後は戦災都市復興に取り組んだが、急逝した。 ==経歴== *1913年、東京市麻布区にて建築家内田祥三(後に東京帝国大学学長)・みね子の長男として生まれる。 *1936年、日本大学旧工学部(現・理工学部)建築学科卒業。東京帝国大学大学院に進学し、高山英華らと都市の研究を続ける。 *1938年、東京帝国大学大学院修士課程修了。在学中は戦時体制に於ける東京という都市のあり方に注目し岸田日出刀や濱田稔の指導の下、「建築計画とくに防火に関する研究」に取り組む。論文「既存木造家屋外周の防火構造及びその施行方法考案」で第一種は当選案、第二種は佳作。 :内田祥三の指導の下、高山英華・関野克らと満州国大同都市計画(大同都邑計画)立案に参加。 :建築学会主催建築展覧会競技設計「青年道場設計図案」で佳作。 *1939年、建築学会主催建築展覧会競技設計「労務者向集団住宅地計画案」で一等。 *1940年、建築学会主催建築展覧会競技設計「家族向アパートメント・ハウス計画案」で佳作。 *1941年、紀伊国屋で開かれた「新しき都市」博覧会に東京をモデルケースとして、「大都会の改造 東京改造計画」を市川清志らと出展。建築学会主催建築展覧会競技設計「国民住宅」などで一等。その後も数々の建築設計競技で入賞。 :住宅営団研究部嘱託。 *1942年、東京帝国大学第二工学部講師。 *1943年、東京帝国大学大学院博士課程満期退学、日本大学講師。 *1944年、日本建築学会賞学術賞受賞。内閣戦時研究員。 *1945年、木造家屋の防災を研究テーマとした論文「木造家屋外周の防火に関する実験的研究」で学位を取得。 *1946年、日本大学助教授就任。同年、東京都商工会主催復興計画図案懸賞募集に弟の内田祥哉、市川清志らと参加。「深川中小工業地区」、「新宿歓興地区」の計画案でいずれも一等当選。特に前者に対しては特賞を授与される。 :東京帝国大学第二工学部助教授就任。東京帝国大学文教地区計画委員会幹事就任。 :栄養失調と過労により日本大学の研究室で夜間に発病、翌日クモ膜下出血で急逝した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「内田祥文」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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