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内田裕也 : ウィキペディア日本語版
内田裕也[うちだ ゆうや]

内田 裕也(うちだ ゆうや、1939年11月17日 - )は、日本ミュージシャン俳優である。本名、内田 雄也(読み同じ)。
夫人は女優樹木希林。娘は内田也哉子。また、内田也哉子と結婚した本木雅弘は娘婿に当たる。身長174cm。
兵庫県西宮市出身。1959年に日劇ウエスタンカーニバルにて本格的なデビューを果たす。以降、グループ・サウンズ・「内田裕也とザ・フラワーズ」のヴォーカリスト、フラワー・トラベリン・バンドのプロデュース活動などを経て、1970年代後半からは俳優としても活躍し、映画出演や監督なども手掛ける。また、映画『コミック雑誌なんかいらない!』や『エロティックな関係』などでは脚本も担当した。口癖は「ロックンロール」(Rock'n Roll)。
== 経歴・人物 ==
兵庫県生まれだが大阪府堺市育ち〔『ぼくのしょうらいのゆめ』プチグラパブリッシング、2006年、P33〕。堺市立大美野小学校〜堺市立三国丘中学校入学(1952年)〔。中学二年の時、清教学園中学校に転入(一期生)〔、翌1953年大阪市立旭陽中学校へ転入〔。1955年大阪府立旭高等学校へ入学〔。少年時代は発明に凝るなど、真面目で勉強熱心なタイプで、清教学園中学時には生徒会副会長を務める〔。中学ではラグビー部、高校では野球部に所属〔。しかし、エルヴィス・プレスリーに憧れたことで学校をドロップアウトし、旭高等学校を退学して1956年大阪府立三国丘高等学校夜学に転校する〔。1957年、高校中退後〔2011年4月3日放送 TBSラジオ爆笑問題の日曜サンデー ここは赤坂応接間」より本人から「卒業ではなく中退である」と述べた。〕バンド・ボーイとして音楽生活を開始し、間もなく佐川ミツオ(現・佐川満男)と共に、バンドボーイ兼ヴォーカルとしてロカビリーバンドのブルー・キャップスを結成する〔。
関西出身のため、プロ野球阪神タイガースファン(阪神ファン)である。
1958年、自身がバンドマスターのブルージーン・バップスを結成。メンバーには美川鯛二(現・中村泰士)、北原謙二などがいた〔。
1959年、大手芸能事務所である渡辺プロダクションに所属し、同年に日劇ウエスタンカーニバルへ初出場する。
1960年かまやつひろしなどとサンダーバードへ参加するが、ジャズ志向が強いバンドであったため脱退し、山下敬二郎とレッド・コースターズ、田川譲二とダブル・ビーツなどのバンドを渡り歩く。
1962年寺内タケシとブルージーンズにヴォーカリストとして参加する。
1963年恩地日出夫監督の『素晴らしい悪女』に映画初出演。その後も、1965年公開の『エレキの若大将』に司会者役で出演し、「レディース&ジェントルメン、マイ・ネーム・イズ・ショーン・コネリー...なんてなことを言っちゃったりして」、「シャークス...シャーク(癪)な名前ですね」などのジョークを交えた軽妙なセリフと演技が見られる。
1960年代中頃から、ベンチャーズビートルズの影響により、ロック色を強めた活動に転換していく。1966年6月のビートルズ日本公演では、尾藤イサオとのツインボーカル、バックにジャッキー吉川とブルーコメッツ、ブルージーンズを従えた特別編成のバンドで前座として出演(ウェルカム・ビートルズなど他数曲を演奏)する。同年には大阪のジャズ喫茶・ナンバ一番で活動していたファニーズ、のちのザ・タイガーススカウトする。上京で活動の場を移しジャズ喫茶新宿ACBなどからステージ・再デビューや内田のバック・バンドを足がかりに活動を広げる計画を持ちかける。しかし、諸事情で頓挫し、また、所属する渡辺プロダクションと自身の活動で軋轢が生ずる。内田は広い人脈を築き、裏方的な役割を志向するが、プロダクション配下で行う芸能活動と両立できず、また、会社側に提案したロック音楽プロデュースという役割も当時は理解されず退社余儀ない状況に追い込まれる。
1967年、春頃から3か月ほどヨーロッパに渡る。オーストリアドイツイタリアスペインロンドンフランスを放浪し、クリームジミ・ヘンドリックスピンク・フロイドジャニス・ジョプリンなどの新しいロックを体験する。その経験を活かし、同年11月に麻生レミをヴォーカルとしてフラワーズ(バンド)を結成し、ジャニス・ジョプリンやジェファーソン・エアプレインなどのカバーを中心に、ジャズ喫茶でのライヴ活動を展開する(レコード・デビュー前の音源として、一柳慧の「オペラ横尾忠則を唄う」(正式な発売は1970年3月に発売)がある)。
1969年、1月にフラワーズのデビュー・シングル「ラスト・チャンス」、同年7月にはジャケットにメンバーのヌード写真を使用したアルバム「チャレンジ!」が発売されるが、志とは裏腹にセールスには繋がらなかった。
1970年、前年年末にフラワーズへ参加したジョー山中(ヴォーカル、元・4.9.1(フォー・ナイン・エース))、石間秀樹(リードギター、元・ビーバーズ)によりサウンド面が強化され、1970年1月26日に開催されたコンサート「ロックンロール・ジャム'70」(同録音は後にレコード化される)では石間がシタールを使用するなど、意欲的な演奏であったが、同時期にメンバーの麻生レミと小林勝彦(スチール・ギター)が渡米のため脱退する。このため、メンバーを新たにピックアップして同年春にはフラワーズをフラワー・トラベリン・バンドとして再編成するが、自身はヴォーカルを降りてプロデュースを担当する。同年10月にデビュー・アルバム「Anywhere」を発表する。日本万国博覧会(通称・大阪万博)で出会ったバンド、ライトハウスのプロデュースを手掛けていたヴィンセント・フスコーが興味を持ったことやオリジナル曲によるアルバム製作も可能となったため、12月には自身とメンバーがカナダへと渡った。
1971年、4月に当時発足したばかりのワーナー・パイオニア(現・ワーナーミュージック・ジャパン)のアトランティック・レーベルから、フラワー・トラヴェリン・バンドとして2枚目のアルバムとなる『SATORI』を発売。その後、1972年2月にライトハウスのキーボード奏者ポール・ホファートのプロデュースによる3枚目のアルバム『Made in Japan』、1973年2月にはカナダより凱旋帰国後に行われた1972年9月16日の横須賀文化会館でのライブ音源に、スタジオ録音の新曲を加えた2枚組として4枚目のアルバム『Make Up』を発売するが、1973年4月の京都円山公園でのコンサートを最後にフラワー・トラベリン・バンドは活動を休止する。
1973年、初のソロアルバム『ロックンロール放送局(Y.U.Y.A 1815KC ROCK'N ROLL BROADCASTING STATION)』を発表。10月には悠木千帆(現・樹木希林)と結婚。12月には年越しロックイベント「フラッシュ・コンサート」を開催する。
1974年8月にワンステップフェスティバル1975年8月に第1回ワールドロック・フェスティバルの主催、ジェフ・ベックニューヨーク・ドールズなどの来日に尽力するなど、1970年代中盤からは日本国外のアーティストの招聘に労力を注いだ。
1970年代後半からは映画俳優としても活躍し、神代辰巳監督の『嗚呼!おんなたち 猥歌』では、本人のキャラクターを活かした歌手役を演じた。また、『コミック雑誌なんかいらない!』『魚からダイオキシン!!』では脚本・主演を兼ね、いずれも衝撃的な作品として評判となった。1977年9月、大麻取締法違反で逮捕され、起訴猶予処分となった。
1979年1月、妻の樹木が『ムー一族』の打ち上げパーティーの席上、番組プロデューサー久世光彦と番組出演者の不倫を暴露し騒動となる。騒動を聞きつけた内田はパーティー会場へ乗り込もうとするが、入店を断られたため店員と押し問答となった揚句、パトカーが出動する騒ぎを起こした〔日刊ゲンダイ2013年3月7日13面 芸能界スキャンダル史〕。

1981年、離婚届を区役所に提出するも、樹木は離婚を認めず、訴訟となり、離婚無効との判決が下る。
1991年にはアントニオ猪木が一度出馬表明しながら撤回したことに触発され、東京都知事選挙に立候補し対立候補浜田マキ子と共闘。政見放送の冒頭から10秒間の沈黙の後アカペラで「パワー・トゥ・ザ・ピープル」、後半にも「コミック雑誌なんかいらない!」を歌い、英語及びフランス語で主張を演説した〔「ミュージック・マガジン 1991年5月号」、ミュージック・マガジン、1991年5月、PP171-172。〕〔政見放送は別バージョンも撮影されている。〕。また選挙戦最終日の4月6日の街頭演説では対立候補である「鈴木俊一」と書かれたたすきを帯び、ほとんど演説をしないまま演奏に終始し、最後は「明日は投票日、絶対に入れないでください」との言葉で締めた〔。選挙公報は「NANKA変だなぁ! キケンするならROCKにヨロシク! Love&Peace Tokyo」とだけ手書きで書かれた物だった。マスコミへのアピール時に政策をフリップ(放送用の手書きボード)に書き込む事を求められた際、「GOMISHUSHUSHA NO TAIGUU O KAIZEN SURU」(ゴミ収集者の待遇を改善する)とローマ字で政策を書いた。以上、数々のエピソードを作り(この模様は映画『魚からダイオキシン!!』にて一部見ることができる)、メディアからは「売名出馬の泡沫候補」と批判され、結果的には落選したが、無所属(政党推薦候補除く)ではトップの票(5万4654票、16人中5位)を獲得した。
シンガーでありながら1985年に発売した「アニー FOR A CHEEK TIME(Annie For A Cheek Time)」以来シングル盤を発表していなかったが、2014年6月11日に29年ぶりにシングル盤としてエイベックスから「シェキナベイベー」〔指原莉乃主演映画『薔薇色のブー子』主題歌でもある。〕を指原莉乃HKT48)とのコラボレーション・デュエットという形で発売した〔内田裕也&さしこ 53歳差デュエット「シェキナベイベー」 スポーツニッポン 2014年4月21日閲覧〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「内田裕也」の詳細全文を読む



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