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内藤元珍 : ウィキペディア日本語版
内藤元珍[ないとう もとよし]

内藤 元珍(ないとう もとよし、? - 元和元年10月19日1615年12月9日))は、毛利氏の家臣。内藤元盛の長男で母は内藤隆春の娘。粟屋元豊の兄。子に元宣。通称は孫兵衛。
慶長5年(1600年)、関ヶ原の合戦後に家督を継ぐ。父・内藤元盛(佐野道可)が大坂の陣にて独断で豊臣方について大坂城に入城したが(主家の意向を受けたとも言われる)、落城して逃走中に捕らえられて切腹させられた佐野道可事件で、徳川氏により京都に呼び出された際、特に弁明できなかったが、大坂城に入城しなかったため許されて帰国した。
だが、帰国した早々、吉川広家福原広俊らの進言を受けた毛利輝元に切腹を命じられ、元和元年(1615年)10月19日に富海龍谷寺で自害した。当時大目付であった柳生宗矩が、切腹を悼む旨の書状を伯父の宍戸元続都野惣右衛門らに送ったとされる。
事件後、長男元宣は母方の志道姓を称し、隠忍の日々を過ごすが、孫の隆昌の代に内藤姓に復し、毛利氏の家臣として明治維新まで存続した。
戒名は玉江院殿松月久安居士。山口県宇部市の瑞松庵に墓所がある。



抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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