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内藤 政義(ないとう まさよし)は、日向延岡藩の第7代藩主。延岡藩内藤家宗家12代。 == 生涯 == 近江彦根藩主・井伊直中の十五男。井伊直弼(直中の十四男)の異母弟に当たる。 文政3年(1820年)3月3日に生まれ、彦根での元服後の初名は直恭といった。天保5年(1834年)7月、藩主であった兄・直亮(直中の三男)の招きで、兄・直弼とともに彦根から江戸へ赴く。嗣子のいなかった延岡藩主内藤政順の養子候補者に挙げられたためである。その結果、選ばれた直恭は政順と養子縁組し、政義と改名した。なお、直弼は翌年8月に彦根へ帰国し、以後は長らく部屋住みとなった。 天保5年(1834年)10月13日、養父・政順の死去により、家督を相続した。同年12月、従五位下能登守に叙任された。藩政においては天保12年(1841年)、嘉永元年(1848年)の相次ぐ飢饉における救済対策、軍制改革、学制改革、新田開発などの改革に従事している。嘉永3年(1850年)、藩校学寮を「廣業館」と改称した。 文久2年(1862年)10月24日、養嗣子の政挙に家督を譲って隠居した。 明治21年(1888年)11月18日に69歳で死去した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「内藤政義」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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