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内藤 政陽(ないとう まさあき)は、日向延岡藩の第2代藩主。延岡藩内藤家宗家7代。 == 生涯 == 元文4年(1739年)5月19日、上野安中藩の第2代藩主内藤政里の次男として生まれる。延岡藩初代藩主である内藤政樹の実子・政尭が宝暦4年(1754年)に早世したため、養子として迎えられた。宝暦6年(1756年)10月21日、政樹が隠居したため、家督を継いだ。 藩の財政悪化のため、家臣の半知借上や俸禄制の改定を行ったが、明和3年(1766年)の時点で借金は10万5563両という莫大なものであり、焼け石に水程度の改革でしかなかった。 明和5年(1768年)、本小路「川手口」(現社会教育センター)に学問所(学寮)と武芸所(武寮)を設立し、学寮では、朱子学の山本与兵衛を監督、白瀬道順を講師、佐久間左膳を儒学執行に命じた。全国的に見ても比較的早い時期(全国280藩中50番目位)、日向諸藩では最初の藩校開設である。学寮は嘉永3年(1850年)に「廣業館」と改称された。 明和7年(1770年)10月29日、家督を婿養子の政脩に譲って隠居する。 天明元年(1781年)閏5月24日、江戸で死去した。享年43。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「内藤政陽」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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