翻訳と辞書
Words near each other
・ 内藤政養
・ 内藤敏子
・ 内藤文成
・ 内藤斐奈
・ 内藤新吾
・ 内藤新宿
・ 内藤新宿町
・ 内藤日名子
・ 内藤昌
・ 内藤昌月
内藤昌秀
・ 内藤昌豊
・ 内藤明
・ 内藤明 (写真家)
・ 内藤昭三
・ 内藤時浩
・ 内藤晴三郎
・ 内藤智秀
・ 内藤有海
・ 内藤朝雄


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

内藤昌秀 : ウィキペディア日本語版
内藤昌豊[ないとう まさとよ]

内藤 昌豊(ないとう まさとよ)は、戦国時代武将武田氏の家臣で武田四天王の一人。「内藤昌豊」の名で伝わるが、1977年服部治則は正しい実名は「内藤 昌秀(まさひで)」であると指摘している〔服部治則「内藤修理亮とその系譜」『武田氏家臣団の系譜』岩田書院、2007年〕〔「豊」は父・虎豊から1字を取ったものである。〕。
== 生涯 ==

=== 出生から信玄時代 ===
武田三代軍記』によれば、大永2年(1522年)、武田信虎の重臣・工藤虎豊(下総守)の次男として生まれたという〔丸島(2015)、p.529〕。父・下総守の事跡は不明であるが、永正5年(1508年)に武田信虎に反乱して敗北し、郡内地方の小山田平三とともに伊豆国韮山の伊勢宗瑞(北条早雲)を頼って逃れた人物に「工藤殿」がおり、これが下総守に相当するとも考えられている〔平山(2008)、p.331〕。
初見史料は永禄2年(1559年)6月12日で、「工藤源左衛門大尉」を名乗り信玄の側近として活動していることが確認される〔丸島(2015)、p.529〕。永禄6年頃から永禄13年頃まで信濃国深志城を守備している。『甲陽軍鑑』によれば、永禄4年(1561年)の第4次川中島の戦いでは本隊に所属し、上杉軍の背後を襲う妻女山別働隊の大将として活躍したという〔丸島(2015)、p.529〕。
永禄9年(1566年)までに信濃国深志城(松本城、長野県松本市)の城代を務める〔丸島(2015)、p.529〕。武田氏は西上野侵攻を行い、同年9月に箕輪城群馬県高崎市箕郷町)を攻略し、永禄10年(1567年)3月に白井城を攻略し、西上野を領国化する。昌秀は永禄9年頃から後閑氏など上野国衆の取次を務めている〔。箕輪城代は永禄9年から翌永禄10年まで春日虎綱真田幸綱による在番で、永禄11年(1568年)から永禄12年(1569年)には浅利信種が務めている。浅利信種は永禄12年10月6日の三増峠の戦いにおいて戦死したため、昌秀は信種の後任として永禄13年から元亀元年(1570年)4月頃までに箕輪城代となり、長篠合戦で戦死する天正3年まで務めている。なお、三増峠合戦で昌秀は小荷駄隊を率いて自軍の補給を支えたという。
永禄10年8月12日の時点では「工藤源左衛門尉昌秀」を名乗っている〔丸島(2015)、p.529〕。昌秀は永禄12年8月26日の時点で「内藤修理亮」を名乗っており、断絶していた武田家譜代の内藤家の名跡を継承し、内藤姓に改め、同時に修理亮を名乗ったと考えられている(工藤氏の家督は兄・昌祐が継いだ)。昌秀は永禄13年4月3日付武田信玄書状において「内藤修理亮」を称していることが確認され、同月10日には箕輪城代着任が確認される。このため、内藤改姓は箕輪城代就任に伴うものであったとも考えられている。
元亀2年(1571年)12月には越後上杉氏から上杉家臣北条高広景家を通じて同盟の申し出があり、このころ武田氏は北条氏政と甲相同盟を結んでいたため、昌秀は信玄側近の跡部勝資と協議し、これを退けている〔丸島(2015)、p.530〕


抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「内藤昌豊」の詳細全文を読む



スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.