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内藤 智秀(ないとう ちしゅう、1886年(明治19年)7月13日 - 1984年(昭和59年)7月24日)は、日本の西洋史学者、文学博士、(元)國學院大學教授、(元)慶應義塾大学教授、聖心女子大学教授、庄内町名誉町民、パキスタン協会副会長。 == 略歴 == * 1886年(明治19年)7月13日 - 山形県東田川郡余目町古関(現・庄内町)の寺院・玄通寺に生れる。 * 荘内中学校(現・山形県立鶴岡南高等学校)卒業 * 第七高等学校造士館(現・鹿児島大学)卒業 * 1912年(明治45年)7月10日 - 東京帝国大学文学部西洋史学科卒業 * 東京大学図書館司書 * 山形高等学校(現・山形大学)教授 * 外務省に入省しトルコ、イラン、アラビアなどに勤務 * 1929年(昭和4年) - お茶の水女子大学教授 * 國學院大學教授 * 慶應義塾大学教授 * 聖心女子大学教授 * 1979年(昭和54年) - 余目町名誉町民(現・庄内町名誉町民) * 1984年(昭和59年)7月24日 - 死去。享年98 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「内藤智秀」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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