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内藤 正重(ないとう まさしげ、天正6年(1578年) - 寛文3年4月20日(1663年5月27日))は、安土桃山時代から江戸時代初期の武将。父は内藤正貞。別名は善斎。子は正次、内藤正吉。従五位下、外記。 == 生涯 == 天正18年(1590年)、徳川家康に仕え、小田原征伐に従軍。文禄元年に300石を賜る。以後、関ヶ原の戦い、大坂の陣などに歴戦する。 慶長5年(1600年)に使番、慶長6年(1601年)に徒頭となり千石を領する。慶長19年(1614年)持弓組頭(俗に内藤組の初代)となり2,900石に加増され、徳川秀忠の側近をつとめる。 寛永3年に従五位下外記に叙任された。寛永8年(1631年)に武蔵国栢間の領主、新五郎忠俊(忠利、内藤正成の孫)が不祥事により改易となるが、正成の三河以来の武功が評価され、正重に旧知5,000石(武蔵国栢間村、戸ヶ崎村、新堀村、三箇村、小林村など)が与えられた。 寛永19年(1642年)3月12日病の為、職を辞する。承応3年(1654年)に子の正吉に家督を譲る。寛文3年(1663年)、86歳で死去。墓所は埼玉県久喜市菖蒲町栢間の善宗寺。 子孫は天和2年(1682年)5代正吉のときに上野台之郷・下野作原で700石加増され、5,700石の旗本寄合として幕末の14代正從(まさとも)まで続く。陣屋は、栢間陣屋(現在の久喜市菖蒲町下栢間の栢間小学校付近。1万坪を超える敷地だった)。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「内藤正重」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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