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内藤 知周(ないとう ともちか、1914年 - 1974年)は、社会運動家で、政治運動家。 神奈川県横須賀市生まれ。1941年東北帝国大学法文学部経済学科卒。在学中に学生運動に加わり、1938年に検挙され無期停学。卒業後、繊維需給調整協議会に就職。召集を受け、中国河北へ。 1946年に復員し、日本共産党に入る。同党山口県委員として徳山市で活躍。1958年同党中央委員。1961年第8回党大会前の綱領決定のための論争のなかで、構造改革派の春日庄次郎と共に、日本の革命は社会主義革命であるという一段階革命論を主張して脱党し、除名される。 同年10月社会主義革新運動準備会を結成し、全国委員・事務局長。さらに、統一社会主義同盟(現在のフロント(社会主義同盟)の前身)を結成。1967年に「前衛党」建設問題で分裂。いいだももらと共産主義労働者党を結党。議長に就任する。 ベトナム反戦闘争、学園闘争を通じて構造改革路線が放棄されるに伴い、組織を離れ、労働運動研究所を組織し理事。 == 参考文献 == 『市民・社会運動人名事典』(日外アソシエーツ編集・発行、1990年) 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「内藤知周」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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