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内藤 陳(ないとう ちん、1936年(昭和11年)9月18日 - 2011年(平成23年)12月28日)は、日本のコメディアン、俳優、書評家(ただし、自身は「“面白本のオススメ屋”」とコメント〔毎日ムック「名人・苦労人50人の整理法をぬすむ」ISBN 4620790745 本人の章より〕)。本名の読み方は「ないとう のぶる」。日本大学芸術学部中退。 ==プロフィール== 東京都出身。プロレタリア文学作家内藤辰雄を父に持つ。7-8歳の頃には高円寺駅の前でゴザを敷き、父と共に読み古しの本の叩き売りをしていた。9歳の時には、東海道本線に単身無賃乗車し、離婚して岡山にいた母親に会いに行き、連れ戻された。 中学2年生のとき父親から勘当されて家出。役者を志し、喫茶店のボーイや八百屋の荷車引き、選挙運動の旗持ち、サンドイッチマン、大道芸人などの職を転々とする。研究生として榎本健一の映演プロを卒業。映演プロ在学中から浅草のストリップ劇場の舞台に立ち、栗実(のち久里みのる。本名栗原克彦)と共にコミックショーを演じる。 1963年(昭和38年)夏、ストリップ劇場のコメディアン仲間の井波健(本名平塚久夫)・成美信(本名大橋敏夫)と共にトリオ・ザ・パンチを結成し、「おら(=俺)、ハードボイルドだど!」などのギャグで人気を博す。1966年(昭和41年)、井波と交代する形で久里を加入させる。同年6月14日、日劇ミュージックホールのダンサーで「セクシー・ファイブ」の一員だった坂巻史子と結婚したが、のち離婚。 1981年(昭和56年)からは『月刊プレイボーイ』誌で「読まずに死ねるか!」を連載し、冒険小説やハードボイルド小説を紹介。1981年(昭和56年)に日本冒険小説協会を設立して会長に就任。以後、「読まずに死ねるか!」シリーズを単行本として出版。 新宿のゴールデン街にバー「深夜プラスワン」(ギャビン・ライアルの作品から頂いた)を経営していた。 TBSで放送された深夜番組『三宅裕司のいかすバンド天国』(1989年(平成元年) - 1990年(平成2年))に不定期で審査員として出演し、迷審査を行っていた。同番組では肩書きを「ハードボイルド作家」と紹介されていた。 2011年(平成23年)12月28日午後10時19分、食道癌のため東京都品川区の病院で死去。。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「内藤陳」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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