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土方 歳三(ひじかた としぞう)は、幕末期の幕臣、新選組副長。諱は義豊、雅号は豊玉、家紋は左三つ巴。 新選組時代には、局長・近藤勇の右腕として数々の事件で武名を顕し、また隊内に峻厳な規律を実施して鬼の副長と称され、剣豪揃いの隊士たちに恐れられた。戊辰戦争では旧幕軍側指揮官の一人として各地を転戦し、またいわゆる「蝦夷共和国」では軍事治安部門の責任者に任ぜられて軍才を揮った。明治2年5月11日、戊辰戦争の最後の戦場になった箱館五稜郭防衛戦で、狙撃を受け戦死。享年35歳。 == 生涯 == === 多摩・試衛館 === 天保6年(1835年)5月5日、武蔵国多摩郡石田(いしだ)村(現在の東京都日野市石田)に農家の土方隼人(義諄)と恵津の間に生まれる。10人兄弟の末っ子であった。土方家は「お大尽(だいじん)」とよばれる多摩の豪農であったが、父は歳三の生まれる3ヶ月前の2月5日に結核で亡くなっており、母も歳三が6歳のときの天保11年(1840年)に結核で亡くなっている。また長兄の為次郎は失明していたため、次兄の喜六と、その妻・なかによって養育された。 少年期の歳三は、村では顔に似合わず「バラガキ」(触ると痛いイバラのような乱暴な少年)と呼ばれた。また、生家には、歳三が少年の頃に「武士になりたい。武士になったらこの竹で矢を作る」と言って植えたという竹がある。 これまで、11歳の時に江戸上野の「松坂屋いとう呉服店」(現在の松坂屋上野店)へ奉公に上がり、すぐに番頭と喧嘩をして郷里に戻ってきてしまったと伝えられていたが、近年発表された石田村の人別帳控により、数えの11歳時は石田村に在住しており、奉公には出ていないことが判明した。欠損もあるが、この人別帳から、歳三が奉公に出ていたのは数えで14歳〜24歳の10年間と考えられるようになった。また17歳の時に松坂屋上野店の支店である江戸伝馬町の木綿問屋(上野店の鶴店に対し、亀店(かめだな)と称された)に奉公に上がり、そこで働いていた年上の女性を妊娠させてしまうといった問題を起こして(番頭に衆道関係を迫られたともいわれる)郷里に戻ったという説もあるが、前述の人別帳の存在から現在ではその信憑性が疑問視されている。どこへ奉公していたかは今後の研究課題といえる〔日野市立新選組のふるさと歴史館叢書第一輯「特別展 新選組誕生」(日野市)〕。 その後、歳三は実家秘伝の「石田散薬」を行商しつつ、各地の剣術道場で他流試合を重ね、修行を積んだ。 姉・のぶは姉弟の従兄弟でもある日野宿名主の佐藤彦五郎に嫁いでおり、歳三も彦五郎宅にはよく出入りしていたといわれる。彦五郎は大火に乗じて命を狙われたことがあり、それを契機に井上源三郎の兄・井上松五郎の勧めで天然理心流に入門し、自宅の一角に道場を開いていた。そんな縁から彦五郎は試衛館の近藤勇と義兄弟の契りを結んでおり、天然理心流を支援した。 歳三はその道場に指導に来ていた近藤と出会い、安政6年(1859年)3月29日、天然理心流に正式入門している。文久元年(1861年)、近藤が天然理心流宗家4代目を継承。記念に紅白の野試合が催され、歳三は紅組の大将を守る役で出場した。 文久3年(1863年)2月、試衛館の仲間とともに、将軍・徳川家茂警護の為の浪士組に応募し、京都へ赴く。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「土方歳三」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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