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内藤 義英(ないとう よしひで、明暦元年5月1日(1655年6月5日) - 享保18年9月14日(1733年10月21日))は、江戸時代の俳人。陸奥磐城平藩の世嗣。第6代藩主(後に日向延岡藩の初代藩主)内藤政樹の実父でもある。子は他に女子(松平頼永正室)、女子(松平信岑継室)。俳号は露沾。 == 生涯 == 明暦元年(1655年)、磐城平藩の第3代藩主内藤義概の次男として生まれる。母は松平忠国の娘。長兄の義邦が早世したため、本来なら世子に指名されるはずだった。しかし父の寵臣である松賀族之助の讒言に加え、父義概は50歳近くになって生まれた弟の義孝を溺愛していたことにより、病弱を口実として父に廃嫡され、一時幽閉された。このため、貞享2年(1685年)に義概が死去すると、義孝が家督を継ぐこととなった。 義英は藩政には口出しせず、江戸麻布の屋敷で隠居生活を送った。もともと父の義概も風虎という俳号を持つ俳諧大名であり、義英もその影響を受けたものと思われるが、義英は露沾(ろせん)という俳号を名乗って松尾芭蕉や榎本其角らと交遊し、元禄4年(1691年)に刊行された芭蕉七部集のひとつである「猿蓑」の春の巻の冒頭では、義英の句が採用されている。 享保3年(1718年)に第5代藩主義稠が死去すると、第6代藩主の座を義英の長男の豊松(政樹)が継ぐこととなり、義英は幼少の政樹の後見人として藩政を代行した。そして父の代から藩で続いていた政治的混乱(小姓騒動)の鎮静化に努め、政樹が成長すると実権を譲って藩政から引退し、再び俳句活動に専念する。また、義英の影響で家中より福田露言・水間沾徳など俳人としても知られる家臣を輩出した。 著作として、露沾公句集という句集がある。 享保18年(1733年)に死去した。享年79。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「内藤義英」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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