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内閣調査局 : ウィキペディア日本語版
企画院[きかくいん]

企画院(きかくいん:英語名 Cabinet Planning Board〔研究社辞書部編『研究社時事英語辞典』(1948年)〕)は、日本における戦前期の内閣直属の物資動員・重要政策の企画立案機関。
== 概要 ==
前身は1935年昭和10年)5月10日に設置された内閣総理大臣直属〔各省大臣と同様の立場での行政事務の分担及びその補助部局→新憲法施行後に総理庁→総理府へ統合。他方で、「合議体としての内閣」の所管部局に法制局と賞勲局があった〕の国策調査機関である内閣調査局にある。「重要産業統制法」(1931年(昭和6年)7月公布)から始まり、五・一五事件を経て二・二六事件以後の陸軍内での統制派の勃興以後、所謂「新々官僚(新官僚)」の牙城・内閣調査局の権限は強まり、より強力な重要政策を立案する組織として、1937年(昭和12年)5月14日に企画庁へ改組。同年10月25日内閣資源局1918年大正7年)の軍需工業動員法制定の後、物資動員企画立案機関として1927年(昭和2年)5月27日に設立。〕と統合し企画院が発足した。重要政策の企画立案と物資動員の企画立案を統合し、以後、戦時下の統制経済諸策を一本化・各省庁に実施させる機関となり、国家総動員法1938年(昭和13年)5月5日施行)制定以来その無謬性を強めていくこととなる。
特に素人の軍部よりも予算や法に通じ・駆使する専門家たる官僚の力が強まり、実際の主導権は官僚側にあったとされる。岸信介と、財界財閥を代表する小林一三との対立は、小林により岸が商工次官を更迭され、1941年[昭和16年)の企画院事件として和田博雄農林省出身)らが共産主義者として検挙される事件にまでつながる〔東條内閣の誕生により岸は復権し、その後の商工省と企画院の統合によって昭和18年11月1日、軍需省が設立されると次官に収まった〕。1943年(昭和18年)の「軍需会社法」により企業の利益追求が事実上否定され、1940年(昭和15年)12月に閣議決定された「経済新体制確立要綱」中の「資本経営の分離(所有と経営の分離)を推し進め、企業目的を利潤から生産目的に転換すべき」とする政策の中心にいた商工省派遣・美濃部洋次、陸軍派遣・秋永月三(のち中将)らの念願は達成されたと、評論家・谷沢永一は書いている〔「官僚もういいかげんにせんかい」 谷沢永一 より抜粋〕 。
単なる法律立案運用解釈のコンサヴァティブ・エンジニアではなくクリエーティブ・エンジニアを目指していたと言われるが〔「ドキュメント 平成革新官僚 公僕たちの構造改革」 宮崎哲弥 + 小野展克 より抜粋〕、戦後、経済官僚は公職追放に対してもほぼ生き残り、戦前の強力な統制から一歩引き行政指導許認可制度、予算手当てや優遇税制(政策減税)、補助金などを主たるパワーとして、大蔵省通産省または経済企画庁経済安定本部から経済審議庁を経て設置〕を主たる拠点として戦後の国家を担うプロデューサー・エージェントとして稼動した〔政治社会学者・菊池信輝は、国家総動員体制以来良くも悪くもこの経済・産業体制は戦後も引き継がれたが、官が主体的に経済を切り回していたというより、むしろ産業界の意向に引きずり回され、本来の「公」がなすべきことが見失われていたという〕。
陸軍・大蔵・商工各省の影響下にあり、各省は優秀な者らを送り、彼らは所謂「革新官僚」として、日中戦争前後の戦時統制計画の立案を担ったが、「統制経済」の牙城として、初期には、吉田茂奥村喜和男松井春生らが参画、その後は、初代総裁に後藤新平を頂いていた南満州鉄道傘下満鉄調査部を経由した官僚として、経済将校として鳴らした石原莞爾と組んだ宮崎正義佐々木義武満州国の経済体制造りに関わった者の中からは、岸信介商工省)、椎名悦三郎(商工省)、美濃部洋次(商工省)、毛里英於菟大蔵省)、星野直樹(大蔵省)らがいる。他に、迫水久常(大蔵省)、植村甲午郎逓信省)、黒田鴻伍(商工省)、橋井真(商工省)、周東英雄農林省)、竹本孫一内閣)らが、民間からは企画院参与(勅任官)として高橋亀吉らがいた。更に東條英機武藤章鈴木貞一板垣征四郎らの軍人の関わりも指摘されている。
1943年(昭和18年)11月1日軍需省へ一本化されたが、1944年(昭和19年)11月1日、企画院と同様の機構構成で綜合計画局が立ち上げられ長官には植場鉄三秋永月三、関東軍参謀副長・池田純久、最後には迫水久常、元商工次官・村瀬直養らが就いた〔綜合計画局長官は、内閣書記官長情報局総裁、法制局長官と並ぶ「内閣四長官」と称された〕。その後、1945年(昭和20年)9月1日内閣調査局と改称され、内閣調査局も同年11月24日に廃止された。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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