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写生文[しゃせいぶん] 写生文(しゃせいぶん)は、写生によって物事をありのままに書こうとする文章。明治時代中期、西洋絵画由来の「写生」(スケッチ)の概念を応用して俳句・短歌の近代化を進めていた正岡子規が、同じ方法を散文にも当てはめて唱導したもので、子規・高浜虚子らによって『ホトトギス』誌を中心に発展し、近代的な日本語による散文の創出に大きな役割を担った〔加藤耕子 「写生文」 『現代俳句大事典』 278-279頁。〕。 == 歴史 ==
=== 成立 ===
写生文の嚆矢は1897年10月、『ホトトギス』第2巻第1号から分載された高浜虚子の随筆「浅草寺のくさぐさ」、同号に掲載された正岡子規の随筆「小園の記」「土達磨を毀つ辞」などにあったとされている〔坪内稔典 「子規の文章運動」 『柿喰ふ子規の俳句作法』 210頁。〕〔。この号は『ホトトギス』が虚子の経営となり、発行所が松山から東京に移ったのちの最初の号であり、これらの随筆は『ホトトギス』編集の中心を担っていた子規と虚子が互いに相談した上で掲載したものと見られる〔。同年8月に松山から出た『ホトトギス』第1巻20号では、子規は発行所を東京へ移すということに触れ、今後は俳論・俳評・俳句だけでなく俳文や和歌・新体詩なども掲載すると書いており、上記の随筆は新しい俳文を作るという意識のもとで書かれたものだということが伺える〔坪内稔典 「子規の文章運動」 『柿喰ふ子規の俳句作法』 210-211頁。〕。 上記の随筆のうち、「浅草寺のくさぐさ」は虚子が鉛筆と手帳を持って浅草寺に出かけ、実際の境内の情景を観察しつつ文章によって描写したもの、「小園の記」は子規が自宅の庭の様子を描出した随想である。いずれもまだ文語体で書かれているが、当時はちょうど、1890年頃から一時勢いを弱めていた言文一致運動が活気を取り戻してきた時期であり、子規も口語体が文語体よりも事物を詳しく描写するのに向いていることを認め、『ホトトギス』にも間もなく口語体によるこのような写生文が載り始めた〔秋尾敏 「子規と写生文」 『正岡子規の世界』 44-46頁。〕〔。ただし、このような文に対し「写生文」という名称が定着するのは子規の晩年頃であり、当初は「美文」「小品文」「叙事文」などと呼ばれている〔秋尾敏 「子規と写生文」 『正岡子規の世界』 46頁。〕〔坪内稔典 「子規の文章運動」 『柿喰ふ子規の俳句作法』 211頁。〕。 1900年1月からは『日本』紙に子規の文章論「叙事文」が3回にわたって掲載され、「或る景色を見て面白しと思ひし時に、そを文章に直して読者をして己と同様に面白く感ぜしめんとするには、言葉を飾るべからず、誇張を加ふべからず、只ありのまゝ見たるまゝに」などとして自分の求める文章像を明らかにした〔坪内稔典 「子規の文章運動」 『柿喰ふ子規の俳句作法』 213頁。〕。またこの前年ころより病床の子規を囲んでの文章会が始まっており、俳人や歌人が集まって互いに文章を練るようになった〔。この文章会は1900年に「文章には山(中心点)がなければならぬ」という子規の言葉によって「山会」と名付けられ、子規の病没(1902年)後も続けられた。この「山会」は『ホトトギス』の伝統となっており、何度かの中断を経て現代においても開催されている〔。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「写生文」の詳細全文を読む
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