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出浦盛清[いでうら もりきよ] 出浦 盛清(いでうら もりきよ、天文15年(1546年) - 元和9年8月18日(1623年9月12日))は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。真田氏の家臣。主水佐、上総介(守)、対馬守。信濃国埴科郡坂城町出浦の生まれ。実名は昌相(まさすけ)。幸久(ゆきひさ)・頼幸(よりゆき)とも伝わるが誤伝である。清和源氏信濃村上氏の一族である出浦清種の次男とされ、更級郡の上平城主(出浦城主)や、上州岩櫃城代などを務めた。江戸時代後期に松代藩の家老を務めた河原綱徳が記した『本藩名士小伝』の記載に甲州透破(忍者)の棟梁とあり、忍者として知られるが、後述の忍城攻めにおける活躍を「忍」と誤伝された可能性が指摘されている。 == 生涯 == 村上義清が武田信玄に敗れ、越後に逃れると武田家に臣従し、甲州透破(忍者)を統率した。武田氏滅亡後は織田信長家臣の森長可に属し、本能寺の変の後、長可が海津城から撤退を図った際には、長可配下の信濃国衆たちはほぼ全員が長可を裏切ったが、盛清は撤退に協力した。長可は深く感謝し、別れる際に脇差を与えたという。 その後、天正11年(1583年)から真田昌幸・真田信之に仕え、小県郡武石村に30貫文を領し、吾妻奉行を拝命した。更級郡上平城主を務め、岩櫃城では最後の城代を務めている。横谷左近とともに吾妻忍び衆を統率して活躍。天正18年(1590年)6月、豊臣秀吉の関東平定では真田軍として北条方が守る忍城攻め(忍城の戦い)でも活躍した。 松代藩では忍者の頭領となり、武者奉行にもなった。この頃は出浦対馬守を称している。関ヶ原合戦後は、上州吾妻郡の群馬原町に住み、 元和9年(1623年)に78歳で死去。 子の出浦幸吉は、松代藩で1000石を領する家老となっている。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「出浦盛清」の詳細全文を読む
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