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小城ノ花 昭和(おぎのはな あきかず、1967年11月18日 - )は、千葉県市川市出身(出生地は東京都港区)で出羽海部屋所属の元大相撲力士。本名は小岩井 昭和(こいわい あきかず)。最高位は東前頭2枚目(1990年5月場所・1996年3月場所)。現役時代の体格は身長188cm、体重137kg。得意手は左四つ、上手投げ。現在は年寄・出羽海。 == 人物 == 元関脇・小城ノ花(13代高崎)を実父として生まれる。実弟には元小結・小城錦がいる。千葉商大付属高校では野球部に所属していたが、入学直後に9代出羽海が「相撲ならすぐに高給取りになれるのに」と口説いたことで大相撲に傾倒。結局高校は2ヶ月で中退して、1983年(昭和58年)7月場所で初土俵を踏んだ。後年小城ノ花本人は「高校入学後、野球で怪我をしたため休んでいる間に、相撲に行くことを決めた」と述懐している。〔出羽海部屋ホームページ 〕右からの上手投げに威力があり、確実に番付を上げていき、1989年(平成元年)7月場所で新十両へ昇進し、1990年(平成2年)1月場所には新入幕を果たした。同部屋・同年齢で新十両も新入幕も同時の龍興山との出世争いは大いに注目された。もっとも、9代出羽海は小城ノ花が新十両を果たした際に「思うように関取にならなくて焦った」とも話していたとされている。十両昇進以前の龍興山(当時・宮田)が脱走騒ぎを起こすなど相撲に不安を感じていたことが気掛かりとなって期待通りのスピード出世とは行かなかったようである。 しかし新入幕の場所後に龍興山が急逝するとライバルを失った気落ちからか全く振るわなくなり、素質的には弟よりも遥かに期待され〔サラブレッドとしての期待もあり、国技館でのイベントで貴花田と共に千代の富士とのぶつかり稽古が組まれたこともある。〕ながらも三役への出世は果たせず、このように上記の記述と合わせて龍興山に土俵人生を翻弄されたと言える。また、新入幕の1990年1月場所と再入幕を果たした1991年3月場所には千秋楽に勝てば敢闘賞の受賞が決定するという状況を迎えたものの、1990年1月場所の千秋楽には寺尾に、1991年3月場所の千秋楽には貴花田に敗れて受賞を逃してしまい、現役時には三賞も獲得できなかった。 1998年7月場所に現役を引退し、準年寄・小城乃花を襲名して出羽海部屋の部屋付き親方となった。準年寄の期限が切れる2000年8月に実父の後を継ぐ形で年寄・高崎を襲名した。 2013年9月10日には、出羽海部屋の師匠である10代・出羽海(元関脇・鷲羽山)が2014年4月に停年(定年)退職を迎えることに伴い、その後を受け継いで小城ノ花が11代出羽海を襲名すると同時に出羽海部屋を継承する予定であることが明らかにされた〔元小城ノ花の高崎親方が出羽海部屋継承 スポーツニッポン 2013年9月10日閲覧〕。そして2014年1月場所後に10代目とと名跡交換し、11代・出羽海を襲名することが日本相撲協会から正式に発表され、同年2月1日付けで出羽海部屋を継承した〔 日本相撲協会 2014年2月1日閲覧〕。同年5月場所後に襲名披露パーティを盛大に開いたが、直前に右足を負傷し、包帯姿での出席となった〔『相撲』2014年7月号(名古屋場所展望号)に掲載されている写真で、右足の包帯が確認できる〕。続く7月場所の勝負審判の職務も春日野が代理を務めている。 なお、小城ノ花と同学年(1967年度生まれ)の関取経験者は彼と龍興山を含め7人いたが、そのうち4人(剣晃敏志、大翔鳳昌巳、大輝煌正人、龍興山)が2009年までに故人となり、2015年現在の存命者についても舞の海秀平と貴闘力忠茂がすでに角界を去っているため、小城ノ花がこの学年では2015年時点で唯一の年寄となっている。また、この学年では横綱・大関になった力士が一人もいないことなどから、同学年のプロ野球選手(桑田清原世代)が黄金時代を築いたのとは対照的に呪われた生年度の大相撲力士という声もある。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「小城ノ花昭和」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Oginohana Akikazu 」があります。 スポンサード リンク
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