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出雲国造(いずものくにのみやつこ、いずもこくそう)は、出雲国(現在の島根県東部地方)を上古に支配した国造。その氏族の出雲氏の長が代々出雲大社の祭祀と出雲国造の称号を受け継いだ。 『先代旧事本紀』の巻10『国造本紀』によれば、第10代崇神天皇のとき、天穂日命(あめのほひのみこと)の11世の孫である宇賀都久怒(うかつくぬ)を国造に定めたとある。『古事記』によれば、无邪志国造・上菟上国造・下菟上国造・伊自牟国造・遠江国造も天穂日命の子神・建比良鳥命(たけひらとりのみこと)を同祖とする。 祭祀継承は、『古事記』・『日本書紀』と『出雲国風土記』、千家家が伝える系譜書『出雲国造伝統略』〔国立公文書館近代デジタルライブラリー「出雲国造伝統略 」〕に記されている。 == 概要 == 出雲氏は、国譲りに応じた大国主命を祀るため、天日隅宮(あめのひすみのみや=出雲大社)の祭祀を担った天穂日命を始祖、その子神・建比良鳥命を第2代とする。初めて出雲国造に任じられたのは『先代旧事本紀』(国造本紀)によれば第12代宇加都久怒からであるが、千家家の伝承をまとめた『出雲国造伝統略』によれば第17代出雲宮向からであるという。 第12代景行天皇の条には、小碓命(をうすのみこと、倭建命)が地名を名に負う出雲建を殺した話〔倭建命による出雲建殺しと出雲振根による弟殺しは、どちらも水浴に誘って偽の刀とすり替えて騙し討ちするもので、構造が共通している。〕が見えるように、上古の出雲地方を中心に大きな勢力を誇った出雲氏が、ヤマト王権下において出雲国造に任ぜられたものである。 国造制は7世紀半ばの大化の改新以後、全国的に廃止される方向に進み、『続日本紀』によれば第43代元明天皇の和銅元年(708年)に、忌部宿禰子首が新たに出雲国守に任ぜられた。これは、国造制から律令に基づく国郡里制に支配体制が移行したことを示す。しかし、出雲国造は紀伊国造などとともに、ごく一部の例外的な氏族として国造の称号存続を許され、『続日本紀』の第42代文武天皇2年(698年) 三月の条に、「筑前国宗形と出雲国の意宇の両郡の郡司は、共に三親等以上の親族を続けて任用することを許す」との詔が記され、また、『類聚三代格』に「慶雲三年(706年)以来令國造帯郡領」とあって、律令制下における出雲氏は、延暦17年(798年)に解かれるまで、引き続き出雲国造を名乗るとともに、出雲国東部にあたる意宇郡(おうぐん)の郡司の職に任じられていた。 意宇郡司職を支族に譲った後の出雲氏本家は、意宇郡から出雲郡杵築郷(現在の出雲大社周辺)に拠点を移し、元々出雲国造家の本拠である意宇の熊野大社と併せて行っていた出雲大社における祭祀に専念するようになったと考えられている。その後、現在に至るまで、出雲大社の祭祀長を示す称号として出雲氏の子孫が出雲国造を世襲している。また、国造の代替わりの儀式である「火継式」に際しては、熊野大社と神魂神社にて儀式が行われ、現在でも熊野大社との関係を維持している。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「出雲国造」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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