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出雲広貞[いずも の ひろさだ] 出雲 広貞(いずも の ひろさだ、生没年不詳)は、平安時代初期の貴族・医師。姓は連のち宿禰、朝臣〔『日本三代実録』貞観12年3月30日〕。侍医・出雲嶋成の子。官位は正五位下・信濃権守。 == 経歴 == 摂津国出身〔『日本後紀』延暦24年11月29日条〕。延暦23年(804年)の年末から病に伏していた桓武天皇に対して、昼夜怠らず治療にあたった功労により、翌延暦24年(805年)正月に正六位上から外従五位下に昇叙される〔『日本後紀』延暦24年正月28日条〕。同年11月左京に貫附される〔『日本後紀』延暦24年11月29日条〕。 平城朝では、中内記〔『日本後紀』大同元年正月28日条〕・典薬助〔『日本後紀』大同元年2月16日条〕・侍医〔『日本後紀』大同元年4月24日条〕を務めるとともに、美作権掾〔・但馬権掾〔と近国の国司を兼ねた。また、平城天皇の命を受けて衛門佐・安倍真直とともに各地方・諸家に伝わる調薬の方法を編纂し、大同3年(808年)に日本初の医薬書となる『大同類聚方』として撰上している〔『日本後紀』大同3年5月3日条〕。 嵯峨朝でも引き続き侍医を務める傍ら、弘仁2年(811年)に内薬正を兼ね〔『日本後紀』弘仁2年4月5日条〕、のち信濃権守も務めた〔。またこの間に、大同5年(810年)従五位下〔『日本後紀』大同5年8月20日条〕、弘仁11年(816年)従五位上〔『日本後紀』弘仁11年正月7日条〕、弘仁13年(818年)正五位下と昇進し〔『日本後紀』弘仁13年正月7日条〕、弘仁3年(812年)には宿禰姓に改姓している〔『日本後紀』弘仁3年6月12日条〕。 医書『難経開委』を著したとされるが、散逸して現存しない。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「出雲広貞」の詳細全文を読む
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