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津軽要塞(つがるようさい)は、大日本帝国陸軍の要塞の一つ。1896年(明治29年)北海道の函館港及び函館湾守備を目的に計画され、1902年(明治35年)に完成した函館要塞が前身で、昭和になって津軽要塞と改称され、津軽海峡も守備範囲に加わった。2001年(平成13年)10月「函館山と砲台跡」として北海道遺産に選定された。 == 概要 == 函館要塞は千畳敷砲台、御殿山第一砲台、御殿山第二砲台、薬師山砲台及び立侍保塁で構成される。1896年(明治29年)頃から「敵軍ヲシテ本湾ヲ利用セシメサル事」を目的に要塞設置が計画され、1897年(明治30年)11月函館要塞砲兵大隊が編成される。1898年(明治31年)6月には薬師山砲台が起工し、同年9月28日の陸軍省告示第11号により函館要塞周辺区域が示された。同年6月御殿山第一砲台の起工、同年9月に御殿山第二砲台の起工となる。同年11月25日、函館要塞砲兵大隊は北海道亀田郡亀田村に移転した〔『官報』第4634号、明治31年12月9日〕。1900年(明治33年)5月23日、函館要塞司令部が函館要塞砲兵大隊構内に開庁した〔『官報』第5071号、明治33年5月31日〕。1903年(明治36年)6月25日、函館要塞司令部が函館区谷地頭町に移転し同日より事務を開始〔『官報』第5997号、明治36年6月30日〕。 要塞諸施設の完成後に日露戦争を迎え、函館要塞も動員される。 1916年(大正5年)には御殿山第一砲台及び薬師山砲台が廃止された。昭和に入り守備範囲を広げる為に竜飛崎砲台及び汐首岬砲台及び大間崎砲台を完成させて、1927年(昭和2年)名称を津軽要塞と変える。これによって津軽海峡の封鎖が可能となった。 大東亜戦争が始まり各地の要塞が軍に隷属すると、津軽要塞も1943年(昭和18年)2月5日軍令陸甲第10号により北部軍に編入され、その後1944年(昭和19年)3月16日大陸命第967号により第5方面軍戦闘序列に編入され第5方面軍隷下となった。室蘭の防備も担当し、津軽要塞重砲兵連隊の第3中隊を配置していた。同中隊は後に第8独立警備隊に編入され、建設中の室蘭臨時要塞に展開して室蘭の防備に当たったが、1945年(昭和20年)7月の室蘭艦砲射撃では射界と射程の関係で何の反撃もできなかった。その他、北海道空襲などに際して、津軽要塞各部隊は対空戦闘を実施している。 戦後、アメリカ軍は函館山要塞が日本の徹底抗戦派のゲリラ戦拠点となる可能性を考え、施設の多くを爆破した。施設の完全破壊には至らなかったが、この影響に因る崩落の危険から弾薬庫や掩蔽壕の多くが現在は立入禁止となっている。函館山ロープウェイ山頂駅・展望台は御殿山第一砲台の上に建てられている。 明治の要塞建設以後、函館山等は要塞地帯として一般人の立入りが禁じられていたが、終戦後の1946年(昭和21年)5月一般開放され、2001年(平成13年)10月北海道遺産に選定された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「津軽要塞」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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