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刁 作謙(ちょう さくけん)は、中華民国の外交官・ジャーナリスト。字は成章。弟に外交官僚、学者の刁敏謙。 == 事績 == 10歳の時に、父に従いホノルルに移る。中学卒業後に帰国し、上海の私立聖ヨハネ学院で学んだ。同大学を卒業後、イギリスに留学してケンブリッジ大学で学び、文学士、法学博士の学位を取得、同国で弁護士となる。1908年、文学修士の学位も取得して中国留学生監督秘書となり、翌年には監督となった。 1910年(宣統2年)に帰国し、留学生試験を受けて進士・翰林院編輯となる。辛亥革命勃発前後には、『北京日報』英語版の主筆を務めた。1912年(民国元年)、北京政府で外交部秘書、大総統秘書を務め、後に駐英公使館参賛となる。1914年(民国3年)、ロンドン総領事事務を兼任した。 1916年(民国5年)に帰国して外交部幇弁秘書となり、翌年には国務院秘書幇弁を兼任した。以後、外交部で各職を歴任し、外交部情報局局長代理にまで昇進した。1920年(民国9年)2月、公立北京清華学校監督に任ぜられ、9月には外交部参事兼和約討論会秘書長となっている。 1921年(民国10年)8月、駐キューバ公使に任ぜられ、10月、ワシントン会議中国代表団秘書長を兼任した。翌年1月、駐パナマ特命全権公使も兼任する。1926年(民国15年)に帰国し、その翌年に安国軍外交討論委員会委員、天津イギリス租界回収委員会委員、外交部条約修訂委員会委員を務めた。 国民政府においても、北京税務学校教授、外交部条約委員会顧問を務めた。1929年(民国18年)から1931年(民国20年)まで北平新聞社社長となっている。1933年(民国22年)、外交部簡任秘書となり、同年9月、シンガポール総領事署理として派遣された。1935年10月、正式に総領事(公使待遇)に昇進し、マレー半島の各領事館を監督・指揮している。翌1936年(民国25年)に召還されて外交部両広特派員となり、1943年(民国32年)7月まで務めた。1974年、死去。享年95。スポーツを愛好し、テニス・サッカー・ゴルフの名手であったという〔『最新支那要人伝』116頁。〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「チョウ作謙」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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