|
刈和野の戦い(かりわののたたかい)は、戊辰戦争の中の秋田戦争で、庄内藩を中心とする旧幕府軍(奥羽越列藩同盟軍)が、羽後国の久保田藩領の刈和野付近で、久保田藩を中心とする新政府軍と戦った戦闘のことである。 == 経緯 == 明治元年(1868年)9月10日に、酒井吉之丞率いる庄内軍二番大隊は刈和野を目指して進撃する。羽州街道の上淀川で250名の秋田兵(久保田藩)と遭遇したが、秋田兵は遁走した。ここで、二番大隊は、本道を南下して刈和野に向かう隊と、本道を北上して船岡に向かう隊に分かれた。 南下した隊は、午後2時頃峰吉川に達して休憩した。そこで、斥候が新政府軍が迫っていることを報告した。新政府軍は島原藩兵が銃撃を開始したので、庄内軍は郷右衛門隊が反撃して一斉に撃ちかけた。すると新政府軍は潰走しはじめ、峰吉川、そして刈和野を目指して敗走する。庄内軍は、新政府軍を前沢まで追いかけた後引き返した。 9月11日に二番大隊は、本道左右の胸壁陣地より新政府軍に激しい銃撃を受けた。それに対して、郷右衛門は数名により接近射撃を試みた。そして、陣地を奪取しながら進撃した。 ここは、沢為量副総督の本営神宮寺まで6キロだったので新政府軍は必死で防衛した。庄内二番大隊の迫ったことを聞いた沢副総督は、振遠隊の護衛で角館に退去した。 前線は膠着したが、山手にいた隊が山を下って新政府軍の背後をついた。新政府軍が動揺したのを見た庄内軍は鬨の声を上げて進撃した。新政府軍は街に火をつけて潰走した。庄内軍は刈和野攻略に成功した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「刈和野の戦い」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|