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別所ます江[べっしょ ますえ]
別所 ます江(べっしょ ますえ、生没年不詳)は、20世紀前半に活動した日本の女優である〔''別所ますえ''、''尾上梅暁''、日本映画データベース、2013年5月9日閲覧。〕〔''別所ます江''、''尾上梅暁''、''別所ますえ''、日本映画情報システム、文化庁、2013年5月9日閲覧。〕〔''別所ます江''、''尾上梅暁''、allcinema, 2013年5月9日閲覧。〕〔''尾上梅暁''、日活データベース、2013年5月9日閲覧。〕〔''別所益枝''、東京国立近代美術館フィルムセンター、2013年5月9日閲覧。〕。別所 ますえ、別所 マスエ、別所 ますゑ、別所 益枝、別所 ます子(べっしょ ますこ)と表記に揺れがある〔〔〔〔。尾上 梅曉(おのえ ばいきょう、新漢字表記尾上 梅暁)の名で関西歌舞伎の女役者からスタートし、尾上松之助とともに初期の映画に出演、日本で初めて劇映画に出演した女優のひとりとして知られる〔〔〔〔キネマ旬報, p.361.〕〔マキノ, p.33.〕〔岸, p.15-19.〕。 == 人物・来歴 == 生年不詳、生地も不詳である。 「尾上 梅曉」の名で旧劇(歌舞伎)の「女役者」として舞台出演をしていたが、1909年(明治42年)、京都で映画製作を始めていた横田商会が製作、牧野省三が監督して同年3月1日に公開された『菅原伝授手習鑑』への出演が、記録に残る最初の映画出演である〔〔〔〔〔〔。つづいて同年、『安達原三段目 袖萩祭文の場』に主演しているが〔〔岸, p.15.〕、同作には、牧野の長女・牧野富枝(牧野冨榮)も出演しており〔安達原三段目 袖萩祭文の場 、日本映画データベース、2013年5月9日閲覧。〕、「この映画には私の娘と都合二人の女役者が出たわけだ」と牧野はのちに回想している〔。牧野が見出した尾上松之助が初めて映画に出演した作品として知られる『碁盤忠信源氏 礎』では、松之助の忠信、片岡市太郎の義経に対し、小車を演じた〔筈見, p.12.〕。 横田商会は、1912年(大正元年)9月10日に合併して日活を形成する一社であるが、横田商会の製作体制を引き継ぐ日活関西撮影所が製作した『鬼丸花太郎』(監督不明)に出演、同作は1917年(大正6年)10月7日に公開され〔〔 、「日活の老女優に返り咲いた」(牧野省三)〔〔。以降、旧劇の女役者から「女優」に転向するが、同作以外の出演歴が不明である〔〔〔。1923年(大正12年)6月1日、牧野省三が日活から独立し、マキノ映画製作所および等持院撮影所を設立すると、これに入社して「別所 ます江」と改名して、母親役・老婆役を多く務める〔〔。同社は、1924年(大正13年)7月、東亜キネマに吸収合併されるが、引き続き等持院撮影所に所属、その後の1925年(大正14年)6月、牧野が同社を離れて新たにマキノ・プロダクションおよび御室撮影所を設立した後は、しばらくしてこれに参加している〔〔。記録に残る移籍後最初の作品は、1927年(昭和2年)1月14日に公開された、牧野が「マキノ荘造」の名で総監督を務めた『喧嘩買兵衛』(監督勝見正義、製作勝見庸太郎プロダクション)であった〔〔。 1929年(昭和4年)7月25日には、牧野省三が亡くなり、同年9月にマキノ正博を核とした新体制が発表になると、別所は、マキノ智子、松浦築枝、岡島艶子、大林梅子、桜木梅子、生野初子、河上君栄、三保松子、泉清子、都賀静子、住乃江田鶴子らとともに「俳優部女優」に名を連ねた〔1929年 マキノ・プロダクション御室撮影所所員録 、立命館大学、2013年5月9日閲覧。〕。その後、新体制下のマキノ・プロダクションは財政が悪化し、1930年(昭和5年)11月14日に公開された『信州侠客伝』(監督中島宝三)を最後に退社、以降の映画の出演歴は見当たらない〔〔〔〔。以降の消息も伝えられておらず、没年不詳。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「別所ます江」の詳細全文を読む
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