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別所長治 : ウィキペディア日本語版
別所長治[べっしょながはる]

別所 長治(べっしょ ながはる)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将大名別所安治の嫡男。通称は小三郎。正室の照子(てるこ)は波多野秀治(娘とも)。
== 生涯 ==
元亀元年(1570年)、父・安治の病死により叔父吉親(賀相)重宗(重棟)を後見役に若くして家督を継ぐ。
別所氏は早くから織田信長に従っており、家督を相続した長治も天正3年(1575年)10月に信長に謁見〔年齢的にこの頃の元服であり、「長」の1字も信長から拝領したものとみられる。〕、翌年も年頭の挨拶に訪れている。天正5年(1577年)に信長が紀州征伐へ出陣すると、長治もこれに加勢した。しかし、信長が中国地方毛利氏を制圧しようとすると、それに呼応して先鋒の役を務めようとしたが、織田勢による上月城の虐殺、中国方面総司令官が成り上がりの羽柴秀吉であることに不満を感じ、の実家である丹波国の波多野秀治と呼応して信長に反逆した〔信長に背いた理由は、長治本人も不満を抱いていたようだが、叔父である別所吉親の影響力が最も大きかったとされる。〕。多くの周辺勢力が同調、従わなかった勢力も攻め、東播磨一帯が反織田となる。
これにより長治は、信長の命を受けた秀吉の軍勢に攻められることとなる。長治は三木城に籠もって徹底抗戦して秀吉を手こずらせ、さらに荒木村重の謀反や毛利氏の援軍などの好条件も続いて、一度は織田軍を撃退したものの、やがて秀吉の「三木の干し殺し」戦法に遭い、神吉城志方城などの支城も落とされ、毛利氏からの援軍も途絶えて、遂に籠城してから2年後の天正8年(1580年)、城兵達の命を助ける事と引き替えに妻子兄弟と共に自害した。介錯は家臣の三宅治忠(みやけ はるただ)が行った。享年23だが、『信長公記』では26とされている。辞世は「''今はただ うらみもあらじ 諸人の いのちにかはる 我身とおもへば'' 」。
なお、別所重宗の嫡子で後の八木藩主・吉治が実は長治の子であるとする系図も伝えられており、落城の際に連れ出され落ち延びたものとしている。
また「北摂三田の歴史」(北康利著)等で紹介される『上津畑ノ庄茶臼山記』と言う史料によると、家臣の後藤基国(ごとう もとくに、後藤基次(又兵衛)の父)が、長治の千代丸という8歳の子を乳母、家来とともに上津城に逃がし、同城落城後は千代丸は帰農したとされている。
三木城跡の上の丸公園には、辞世の歌碑と、近年地元のライオンズクラブが寄贈した長治の騎馬武者石像が立てられている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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