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『利根川図志』(とねがわずし)は、江戸時代末期に赤松宗旦(あかまつそうたん)が著した利根川中・下流域の地誌である。 == 解題 == 執筆時期については、序文に江戸時代末期の安政2年(1855年)と記されている〔赤松 宗旦 著、柳田 国男 校訂 『利根川図志』(岩波文庫) 岩波書店、1938年、28-33頁(自序、凡例)〕。また、『利根川図志調帳』には、「安政4年(1857年)10月に『利根川図志』が完成し、取材協力者に送った」とあるので、この頃には製本が完了したことが分かる〔川名 登 『評伝 赤松宗旦-『利根川図志』が出来るまで』 彩流社、2010年、157-161頁(『利根川図志』の完成)〕。安政5年(1858年)4月、幕府から正式に出版が許可され、頒布されるようになった〔川名 登 『評伝 赤松宗旦-『利根川図志』が出来るまで』 彩流社、2010年、184-197頁(諸国売弘めの許可)〕。 執筆者の赤松宗旦(赤松義知)は、下総国相馬郡布川村(現在の茨城県北相馬郡利根町布川)の医師。文化3年(1806年)生まれ。父の恵も宗旦と称しており、義知は2代目であった〔川名 登 『評伝 赤松宗旦-『利根川図志』が出来るまで』 彩流社、2010年、30-39頁(『利根川図志』の著者-宗旦義知)〕。 紹介されている地域は利根川中・下流域。現在の渡良瀬川合流地点から太平洋河口まで、すなわち、茨城県古河市から千葉県銚子市までの広い流域を対象とし、各地の名所・旧跡・名産品・風土・風習などを、多数の挿絵を交えて紹介している〔赤松宗旦 著、柳田国男 校訂 『利根川図志』(岩波文庫) 岩波書店、1938年、3-14頁(解題・柳田國男)〕。 挿絵を描いた絵師も多彩で、宗旦自身が残した『雑話』には、葛飾北斎(2代目)、葛飾為斎、山形素真、湖城喜一、玉蘭斎貞秀、一立斎広重の名が見える〔川名 登 『評伝 赤松宗旦-『利根川図志』が出来るまで』 彩流社、2010年、207-223頁(『利根川図志』に画いた絵師たち)〕。 続編については、凡例に、「而して上利根川の方、亦継で筆を起こさむとす、その考察においては、亦上武諸哲の教を期つ」とあり、宗旦は上流域を対象とした構想を持っていたことが分かる〔。実際に、『利根川図志後篇 草稿巻一』、および、「利根川水源并支流名称」・「利根川御用御船印」・「木下シ旅人船御定」の記載がある史料が残されている。しかし執筆途中の文久2年(1862年)、宗旦は57歳で死去し、続編は完成しなかった〔川名 登 『評伝 赤松宗旦-『利根川図志』が出来るまで』 彩流社、2010年、198-202頁(「続編」の執筆と死)〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「利根川図志」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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