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前原 一誠(まえばら いっせい)は、日本の武士(長州藩士)。諱は一誠。通称は八十郎、彦太郎。倒幕運動の志士として活躍したが、明治維新後、萩の乱の首謀者として処刑された。位階は贈従四位(大正5年(1916年)4月11日)。維新の十傑の1人。 == 経歴 == 天保5年(1834年)、長門国土原村(現・山口県萩市)にて、長州藩士・佐世彦七(大組47石)の長男として生まれ、前原氏を相続する。前原家の遠祖は戦国武将米原綱寛(尼子十勇士の一人)である。 天保10年(1839年)、郡吏となった父とともに厚狭郡船木村に移住。のちに萩にて修学するが、嘉永4年(1851年)、再び船木にて陶器製造など農漁業に従事する。安政4年(1857年)、久坂玄瑞や高杉晋作らと共に吉田松陰の松下村塾に入門する。松陰の処刑後は長崎で洋学を修め、のちに藩の西洋学問所・博習堂に学ぶ。 文久2年(1862年)に脱藩し、久坂らと共に直目付・長井雅楽の暗殺を計画する。文久3年(1863年)、右筆役、七卿方御用掛。その後は高杉らと下関に挙兵して藩権力を奪取し、用所役右筆や干城隊頭取として倒幕活動に尽力した。長州征伐では小倉口の参謀心得として参戦、明治元年(1868年)の戊辰戦争では北越戦争に出兵し、参謀として長岡城攻略戦など会津戦線で活躍する。明治3年(1870年)、戦功を賞されて賞典禄600石を賜る。 維新後は越後府判事(次官)や参議を勤める。大村益次郎の死後は兵部大輔を兼ねたが、出仕することが少なかったため、船越衛は省務停滞を嘆いている。また、大村の方針である「国民皆兵」路線(徴兵令)に反対して木戸孝允と対立する。 やがて、徴兵制を支持する山縣有朋に追われるように下野し、萩へ帰郷する。新政府の方針に不満をもった前原は明治9年(1876年)、奥平謙輔とともに不平士族を集めて萩の乱を引き起こしたが、即座に鎮圧されて捕らえられ、萩にて処刑された。享年43。 彼の辞世の詩として伝えられるのは、「''吾今国の為に死す、死すとも君恩に背かず。人事通塞あり、乾坤我が魂を弔さん。''」。またその戯句に、「''これまではいかい御苦労からだどの よびだしの声まつむしや秋の風'' 」。 墓所は山口県萩市土原の弘法寺。遺言により戒名はないという〔中嶋 繁雄 『明治の事件史―日本人の本当の姿が見えてくる!』 青春出版社〈青春文庫〉、2004年3月20日、47頁〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「前原一誠」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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