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前川 八郎(まえかわ はちろう、1912年4月1日 - 2010年3月16日)は、兵庫県出身のプロ野球選手・指導者。 == 来歴・人物 == 神港中学校(旧制)から國學院大學へ進学し、卒業後に東京鉄道局へ進んだ。 、東京巨人軍に入団。7月1日に行われた初の公式戦2番・二塁手で先発し、途中沢村栄治をリリーフ後にまた二塁手に戻った。5打数2安打を放ったが、投手としては打たれ巨人初の公式戦敗戦投手ともなった〔「ベースボール温故知新」『週刊ベースボール』2011年8月8日号、ベースボール・マガジン社、2011年、雑誌20442-8/8, 80頁。 〕。同年7月3日の対大東京軍戦でも、2番・二塁手でフル出場。二塁打で出塁して先制の得点をするなど巨人の公式戦初勝利に貢献した。 その後は投手として、二塁手、三塁手、外野手を兼任しながらまでプレーした。投げる時の打順は主に6~8番、野手の時は3番か5番を打った〔。1937年9月25日大阪タイガース戦では4番センターで先発し、巨人歴代5番目の4番打者となった〔。10月20日の対名古屋金鯱軍戦では、1番・中堅手で先発出場した後に救援登板して、5回無失点に抑え味方の逆転で勝利投手となった。打撃は4打数2安打2打点〔1937年10月21日付読売新聞 - 『巨人軍5000勝の記憶』付属DVD〕。1936年から1938年までの3年間で18勝を挙げた。後にエースナンバーとなる背番号18を、巨人でヴィクトル・スタルヒンに次ぐ2代目としてつけた選手である。 現役引退後は瀧川中学校(旧制)野球部監督を務めたことがある。当時の教え子に青田昇、別所毅彦がいる〔別所は、後年、「滝川中では3人の監督に指導を受けた。(中略)次が前川八郎さん、巨人軍の投手としてならした前川先生にはピッチング技術を教わった。ボールの握り方、腰の使い方、全体のフォームなど投球のすべてを習った」と述べている(1986年12月8日付日本経済新聞p.32『私の履歴書』)。〕。 には阪急軍でプロ野球に復帰し3勝を挙げたが、再び現役を引退した。 に富士製鐵広畑製鐵所の野球部監督に就任。都市対抗野球大会では4度後楽園に出場し、には準優勝を果たしている。1967年に正力亨の要請で巨人のスカウト部長に就任し、1972年まで務めた。巨人退団後は堀越高等学校で教鞭を執る傍ら、野球部の監督も務めた。 7月7日、巨人対横浜戦(東京ドーム)において、巨人軍創立75周年記念イベントの一環として、97歳で69年ぶりに後楽園のマウンドに立ち、巨人軍選手当時の復刻ユニホーム(背番号18)を着用して始球式を務めた〔前川八郎氏が始球式 日刊スポーツ 2009年7月7日閲覧〕。ボールはホームまで届かなかったものの、健在な姿を披露した。 2010年3月16日午前5時40分、埼玉県越谷市の病院で呼吸不全のため死去。満97歳没。巨人OBでは最高齢であり、また消息が判明している日本の元プロ野球選手の中でも最高齢だった(現在の最高齢は浅岡三郎)。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「前川八郎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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