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前橋二十五人衆 : ウィキペディア日本語版
前橋二十五人衆[まえばしにじゅうごにんしゅう]
前橋二十五人衆(まえばしにじゅうごにんしゅう)は、明治時代初期、群馬県令楫取素彦と協力して前橋市県庁を誘致した前橋の有力者25名を指す。
== 概要 ==
楫取素彦県令を務めた熊谷県は、養蚕製糸業が盛んなうえ狭山茶の産地でもあり、当時の日本経済の屋台骨であった。その熊谷県が、1876年(明治9年)に群馬県埼玉県に分割され、楫取素彦は第2次群馬県の初代県令となった。当初県庁は高崎に置かれることになったため、楫取素彦は高崎町民に協力を求めたが得られなかった。そこで下村善太郎を中心とした前橋の有力者25名は、師範学校の建設や衛生局の設立などに私財を投じ、物心両面から楫取の県政を支える決意を示した。楫取素彦はその熱意に感動し、県庁を前橋に移す決心を固めた。1881年(明治14年)に県庁が前橋に置かれることになり街の繁栄の基礎が築かれた〔『広報まえばし』(前橋市、2014年1月1日号)4頁。特別寄稿文化国際課手島仁〕。
県庁移転費用調達の協議会では、下村善太郎が「一万両出すから」と口火を切り、ある富豪に「三千両出してもらえないか」と持ちかけたところ、「二十両でも出せない」と嫌がったため、怒った勝山宗三郎がこの富豪の頭を二つ殴り、「一打ちが千両として、二つ打ったから二千両増して(私の分と合わせ)三千両出しましょう」と言ったので、目標金額の三万両は即座に集まったという〔『手島仁の「群馬学」講座』第54回(東京新聞群馬版)〕。
中心人物の下村善太郎は後に初代前橋市長となった。1917年(大正6年)4月、前橋市制施行25周年を記念して、下村善太郎像(当時、前橋公園内)の前に「県治記念碑」が建設され、そこに25人の氏名が記された。なお、下村善太郎像は戦争で供出されてしまったが、県治記念碑は、前橋東照宮の南側、前橋公園休憩スペース北側に移設されており、今でも見ることができる。
== 二十五人の氏名 ==
前橋二十五人衆とは、次の人物の総称。
下村善太郎(生糸商・初代前橋市長)・勝山源三郎・勝山宗三郎(質商・唐物商)・須田傳吉(紙・油・ろうそく商)・大島喜六(魚問屋)・市村良平(生糸業)・江原芳平(生糸業)・竹内勝蔵(生糸業・第8代前橋市長)・横川重七(河内屋呉服太物商)・松井林吉(糸繭商)・鈴木久太郎(荒物雑貨商)・荒井友七(金物商小松屋本店)・荒井久七(小松屋陶器店)・深町代五郎(味噌醤油醸造業)・八木原三代吉(大地主)・筒井勝次郎(油商)・中島政五郎(肥料商・糸繭商)・田部井惣助(生糸商)・武田友七郎(繭糸商)・横川吉次郎(呉服商・生糸商)・生方八郎・桑原壽平(薬種商)・太田利喜蔵(酒造業・生糸業)・久野幸人・串田宗三郎

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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